3月20日 東京大空襲10万人死亡

東京新聞2018年3月10日32面:1945年3月10日(土)を現在の視点で編集しました この紙面は東京大空襲当日の様子を、現在の視点で取材、編集したものです。当時、被害の実相は隠されていました。連載「空襲前夜」)(8,9日)に登場した人々の空襲体験を13日に紹介します。
下町の大部分焼き尽くす 10日未明、米軍の爆撃機B29約300機が東京都内の下町地域を中心に空爆した。午前零時十分ごろから約3時間にわたり、大量の焼夷弾が投下され、浅草、向島、本所、深川、城東各区などがほぼ焼き屈された。死者数は約10万人に上るとみられ、1944(昭和19)年11月から続く国内の大規模空襲の中で最悪の被害となった。
B29300機低空から国内最悪の被害 警視庁の調べで判明しているのは、死者約8万3千人、負傷者約4万人、被災者約100万人、消失家屋約27万戸。麹町、神田、日本橋、京橋、芝、赤坂、世田谷、渋谷、豊島、滝野川、板橋、荒川、足立、向島、城東、葛飾、江戸川の27区が被災した。焼夷弾による出火が強風にあおられて大火災となり、下町の大部分約40平方㌔を焼いた。隅田川に架かる言問橋(浅草、向島)、二葉(本所)、東陽(深川)両国民学校、明治座(日本橋)などでは、避難していた大勢の人々が亡くなった。米軍は44年6月、日本軍が占領していたマリアナ諸島のサイパン島に上陸。日本軍を破り、島内にB29の基地を建設した後、本土への空襲を本格化させた。これまでは主に日中、1万㍍以上の上空から軍需工場を目標としてきたが、今回は夜間、2千㍍ほどの低空から住宅や町工場が密集する市街地を爆撃。一般市民も対象に含めることで、日本の戦意喪失を狙ったとみられる。
 防空法順守で被害拡大か 消火活動で逃げ遅れ 10日未明の東京・下町地域への空襲では、約10万人が亡くなったとみられる。一晩の死者としては未曾有の犠牲者となった要因としては、都市からの退去禁止や空襲時の応急消火義務を定めた防空法の影響、米軍の周到な作戦などが考えられる。防空法は1937年に施行され、灯火管制や防空演習への参加協力が義務付けられた。41年の改正で退去禁止と応急消火義務が追加された。
「空襲時も逃げずに火を消せ」という法の趣旨は、地域でのバケツリレー訓練などを通じ、市民の頭にたたき込まれている。実際に空襲に遭っても、その場に踏みとどまって消火活動に務めたために逃げ遅れた人が多かった可能性がある。さらに、今回の被害地域は、木造家屋の密集地で、大量の焼夷弾が投下された上に強風もあり、鉄筋校舎の国民学校や公園といった避難所にも火の手が延びた。川が縦横にあり、安全な避難所に逃げにくい地形だったことも災いした。
一方、米軍は、こういった東京の下町の特徴や天候を踏まえて今回の大規模空襲に至ったとみられ、投弾されたのは全て、焼夷弾だった。日本のレーダー配備や対空砲火力の弱さも突き、これまでになかった低高度で爆撃し、投弾の精度を上げた。

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