3月18日 寂聴 残された日々 45まだ生きている

朝日新聞2019年3月14日35面:この命 役に立っているなら 「時」という不思議なものは、一刻の休みもなく過ぎつづける。その間に、人は一日の休みもなく、生まれつづけ、死につづける。いつの間にやら満九十六年も生きてきた自分の命の長さと重さに、愕然としている。あと二カ月もすれば、私はまた幾人の人に死に別れることだろう。一番可能性の高いのは、自分自身との死に分かれかもしれない。そう思いながらも、図々しい私は、まだ、だらだらと生きつづけて役にも立たなくなった自分の命を持て余しているような気もする。生きるということは、その存在が誰かの役に立っていることではないだろうか。夫婦の、恋人の、家族の、よりどころになっているという自覚がある時、人は自分の命の重さをひしひし実感することができる。
九十六年も生きながらえると、自分では自覚しなくても、たぶん、呆けているだろうし、毎日思いちがいや勘ちがいを繰りかえしているだろう。しみじみふり返ると、自分が死んでも、不自由を感じたり、心細くなったりする人もいなくなった気がする。この年になると、どんな身内や親友が死んでも、葬式に出席しても、そこで自分が死んだり倒れたりすれば、迷惑をかけるだけだからだ。不義理ではなく、出席しないことが、礼儀なのだ。
長生きして一番切ないのは、自分より若い知人や身内の死を見送ることである。昨年から今年にかけて、両掌の指で数えられるほどの知人や身内が死んで行った。その度、私は出家者のくせに、枕元でお経もあげていない。もはや何の役にも立たなくなった。まだものを書く仕事を与えてくれる新聞社や出版社がある。何という有り難いことだろう。今となっては私はペンを持ったまま、原稿用紙の上に顔を伏せて死にたいとばかり念願している。
毎月、寂庵で法話もつづけている。声が若いので苦にならない。毎回、集まってくれる人は、北海道や沖縄の人まであり、来てよかった、逢えてよかったと涙ぐんでくれる。その度に、まだ生きていてよかったのかなと、私は少しばかり心が軽くなる。行きたい所へは、大方行った。着たいものもほとんど着てしまった。食べたいものも大方食べた。結構な人世だったと思う。五十一歳で出家してからも四十五年にもなっている。仏に守らていると、ひしひしと感じることが多い。
生きたあかしに、私に書いたものが少しの歳月は残ってくれるであろう。有り難いことだ。本音を言えば、もう生きつづけるのが、しんどくなっている。さっさと歩けない。誰かと会いたいと思ったら、その人はもうとっくに死んでいる。あの世へ行けば死んだ会いたい人に逢えるのでしょうかと、よく訊かれる。尼僧の私は「逢えますとも。遅かったねと、その人はあの世の飛行場で待っていますよ。ええ、今はあの世へ行くのもわたし舟なんかじゃなくて飛行機ですよ」と言う。訊かれた人は笑顔になり、「主人と別れた時より三十余年も経っているので老けた私をわかるかしら」と首をかしげる。そんな毎日をまだ生きている。

 

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