21日 礎に刻む 名もなき民

朝日新聞2017年8月18日31面:戦後72年夏 戦死と向き合う【7】沖縄 国籍も関係なく 国籍や軍籍にとらわれず、無数の戦死者たちの名を刻む異色の記念碑がある。今年92歳で亡くなった大田昌秀さんが、沖縄県知事として迎えた終戦50年の節目に完成させた「平和の礎」(糸満市)だ。大田さんが礎に託したもの、礎が私たちに伝えるものとは何か。シリーズ「戦死と向き合う」。最終化は、沖縄から。
高さ1・5メートルの黒い石の壁が並ぶ。総延長は約2.2キロ。沖縄戦などで亡くなった計24万1468人もの名前が刻まれた「平和の礎」。沖縄県民だけでなく、日米両軍のトップや特攻隊員、植民地だった朝鮮半島や台湾出身の名前もある。建てられた際の県の計画書は「戦没者の英霊視につながらないもの」と記す。
戦死者たちとどう向き合うかのか。大田さんは戦後の人生そのものだった。1945年3月、「鉄血勤皇隊」と名付けられた男子学徒隊に動員され、弾薬運びや伝令、敵陣への突撃まで担わされた。386人の学友のうち226人が戦死。廃線を知らないまま10月に捕虜になるまで、極限の戦場にいた。
飢餓に苦しんだあげく自決する兵士。降伏しようとする見方を射殺する兵士、身を隠す壕から子どもや老人を追い出し、食糧を奪い取る兵士・・・。「戦争は勝者も敗者もなく、ただ無数の人間の貴い血が際限なく流されるだけだと、膨大な死者の名前から読みとっていただきた」-。平和の礎に託した思いを、大田さんは著書『沖縄の決断』でこう記している。
ただ、戸籍は焼失していた。全員が亡くなった一家など、記録のない死者たちが少なくなかった。大田さんが決断したのが、県民だけで10万人規模になる全戦没者調査だった。糸満市の大城藤六さん(87)は、県民調査員に手を挙げた。集落を歩き、誰がいつどこで亡くなったのかと尋ね回った。脳裏には14,15歳で見た無数の死者たちの記憶があった。捕虜として収容所にいたころ、マラリアなどで次々に亡くなる人を浜辺に運び、穴を掘って埋めた。集落に帰されること、道ばたや畑、壕や家の中にも遺骨が転がっていた。雨が降ると、腐臭が集落を覆った。
撤退した日本軍と、避難民が混在した沖縄戦最大の激戦地。出身集落の約半数が亡くなっていた。調査の中で、近所で暮らしていた夫婦の幼い娘の記録がないことに気づいた。親戚に聞いても名前がわからない。だが、「確かに、女の子がいた」という記憶が大城さんにはあった。「嘉納光雄の子」そう申請すると、そのまま礎に刻まれた。「〇〇の子」「〇〇の長男」「〇〇の妻」・・。名前のない刻銘者は329人を数える。大城さんも、父や祖母ら30人余りの親族を失った。2人の妹は、遺骨もない。礎の完成後も遺骨収集に参加し、追加の刻銘を達だってきた。今年7月にも新たな相談が寄せられた。「せめて一人ひとりが生きた証しを残さなればと思って生きてきた。まだ終わらない戦争の後始末は、国がやるべきではないのでしょうか」
礎にはなお、数千人分の名前を刻める空白の壁が残る。大半は、軍人や軍属として動員された朝鮮半島出身者のためのスペースだ。県は一時、韓国の研究者に調査を委託していたが、刻銘は昨年までに北朝鮮82人、韓国365人にとどまる。日本人と一緒の刻銘を拒んだ遺族もいる。全容はわからない。
それでも今年、日韓の支援者らの協力で、7年ぶりに韓国の15人の名が加わった。ソウル市の権水清(クオンスチョン)さん(79)は今、礎に刻銘された父の名前の写真を額に入れ、枕元に置いている。父は44年ごろ微用された。戦後すぐに母や姉が死去し、孤児として生きてきた。父は沖縄で亡くなったと一度だけ、帰還者に聞いた。十数年前、日本政府に照会して所属部隊は判明したが、死亡記録はない。刻銘は、遺影も、遺骨もなく、墓も建てられなかった父の唯一の形見になった。「何の消息もなかった父が、名前だけでも帰ってきてくれた。これで供養してあげられる」せめてあまねく名を残し、戦死の無益を伝えたい。戦後72年。「平和の礎」の営みがまだ、続く。 (木村司)

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