2月8日 【1】明治の記憶

東京新聞2018年1月30日6面:皇民教育骨まで染みた 作家 五木寛之さんに聞く いつき・ひろゆき 1932年福岡県生まれ。生後すぐに朝鮮半島に渡り、47年に日本へ引き揚げ。早稲田大中退後、作詞家などで活躍。66年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞。翌年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞。他の代表作に「青春の門」「親鸞」など。近著に「孤独のすすめ」。 あのときから始まった150年の軌跡 今年は元号が明治になって150年。近代国家に歩みだす起点であり、太平洋戦争につながる激動の歴史の始まりだ。政府は「明治の精神に学び、日本の強みを再認識する」とするが、高揚感だけで迎えていいのか。この軌跡を冷静に見つめた。
作家の五木寛之氏は中学1年生の時、現在の北朝鮮、平壌で1945年の敗戦を迎えた。難民として置き去りにされた少年は母を失い、命懸けで38度線を越え九州に引き揚げる。そのため故郷の根を失ったデラシネと自称することも。自らの体験を基に、明治からこの国について語った。
今、戦前に似ているといわれるが、戦前というのは、明治以来の営々とした、微に入り細をうがつ教育と、教化によって形成された。85歳の私の頭に今も、軍隊に関係する戦前、戦中の民謡、童話のメロディーがふっと浮かび、口をついて出てくるんです。「上野駅から 九段まで 勝手知らない・・」「僕は軍人大好きよ 今に大きくなったら‥」「‥お国のために戦った兵隊さんのおかげです」
皇民になるための教育が、サブカルチャーも動員し、子どもの中にやわらかな水がしみ通るように、精神の中にしっかりと折り込まれていった。いまだに、教育勅語や軍人勅論に骨絡みになっている。それは一朝一夕にはできない。だから「戦前は一朝にしてはならず」と言っている。
なぜそうしたのか。欧米の機械文明に到底追い付けなかった。だから、人心、精神力を欧米に比べ10倍、20倍強くしなければという精神主義があった。歌でも「敵は幾万ありとても すべて烏合の勢なるぞ‥」という具合です。われわれ世代は、こんな教育をシャワーのように浴びて育ち、敗戦でそれをぽっきりとへし折られた。本当にロストジェネレーションです。
<「都合が悪い事実、忌まわしい出来事は『歴史』のなかに隠蔽されていく」。著書「日本人のこころ5」でこう述べ、国がつくる歴史への懐疑心を示している> 明治という言葉に対し、心の中にノスタルジアがある。中村草田男の俳句「降る雪や」もそう。あの頃の日本人、男たちは頼もしかったといような、肯定的なものが頭に焼き付いている。司馬遼太郎さんの描く「坂の上の雲」にように、憂国の志を持つ人が、情熱を傾けて国づくりをしたという青春論もある。
確かに維新の志士たちはヒーローで格好いいが、孫悟空のようにあくまで物語の主人公みたいなもの。歴史というのは常にいろいろな物語に書き換えられていく。だから全く違う見方もできる。現在、戉辰戦争とか明治の再評価がいろいろな形で行われている。私が昔、雑誌の取材記者として農村を歩き回ったとき、古老からこんな話を聞いた。昔繁盛した寺とか神社は「くじ逃れ」に功徳がある所だったと。
かつて微兵対象はくじで選ばれていて、甲種合格者の全員が入営するわけではない。自分で行くわけにはいかないが、親族や知り合いが、住んでいる村ではない所に詣でたりお札をもらったりし「できれば兵隊にとられませんように」とお願いしていた。「歓呼の声に送られて」と歌われながれも、こんな人々の心もあった。歴史というのは常に客観的に、相対化して見ないといけない。
<仏教を学び古寺を巡礼する中で1868(明治元)年に神仏分離令が出され、「廃仏稀釈」が全国で巻き起こったことに興味を持った> もともと異国から来た仏教と、この国の神道は、長い間同居してきた。お坊さんが祝詞をあげたり、家には仏壇と神棚があった。徳川時代には寺請制度があって、寺は住民支配の役割を担うなど驚くべき権力を持っていた。
これに対し明治政府は、天皇を中心とした国家神道を確立するため、仏教も従前の神道もその下に統一しようとした。維新を成し遂げた元勲たちは、天皇を国民統合のシンボルにしようとした。分離令に呼応し国民のルサンチマン(怨恨)も燃え上がり打ち壊しに参加する。このため寺院だけでなく地域の共同体(講)までもが失われた。宗教が形骸化していたこともある。その反省から日清、日露の戦争の勝利に沸き返る風潮の陰で、澎湃(ほうはい)として仏教ルネサンスを求める動きがあったことも注目すべきだろう。(聞き手・諏訪雄三、写真堀誠)

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