2月2日 みちのものがらり 県道9号佐野古河線(栃木、群馬、埼玉、茨城県)

朝日新聞2019年1月26日be6面:5㌔で5回の県境越え 都道府県境を越え、それなりの規模の都市を結ぶ道は、国道になっていることが多い。だが、栃木県佐野市と茨城県古河市をつなぎ、さらに群馬県と埼玉県を通過するその道は、地方道のままだ。栃木でも群馬でも埼玉でも茨城でも「県道9号佐野古河線」。道路マニアの間では、4県をまたぐ全国唯一の都道府県として知られている。栃木ー群馬ー埼玉ー群馬ー栃木ー埼玉。総延長18㌔のうち5㌔にも満たない区間で、入り組んだ県境を5回も越える。「〇〇県に入りました」と音声で知らせるナビ付の車を運転していれば、あわただしいことこの上ない。
この県境密集区間の東に広がるのが、2012年にラムサール条約に登録され、主に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地と認められた「渡良瀬遊水地」だ。面積33平方㌔メートル。JR山手線内側の約半分の広さに匹敵する。昨年末、栃木県藤岡町の高際登雄さん(69)に、遊水池を案内してもらった。毎朝、愛犬とここを散歩し、その様子をブログで報告している。
関東平野のど真ん中。年末寒波のお陰で空は澄みわたり、首を回すだけで、筑波山、男体山、赤城山、榛名山、浅間山、秩父連山と、関東の名峰が次々視野に入る。もちろん富士山も見える。野鳥に植物、昆虫、魚。遊水池では四季折々に希少な生きものたちを観察できる。コシ原が枯れ色に染まる今の季節なら、北方から渡ってきた冬鳥たちが主役。高際さんによると、朝夕にはバードウオッチャーたちの車列ができる。お目当ては、猛禽類のチュウヒとハイイロチュウヒ。「翼をV字に広げて滑空するのがチュウヒ。水兵にとどまるトンビとの見分け方です」そんな説明をしたそばから、「あっ」と高際さんが空を指さした。「あれがチョウヒですよ。早朝と夕方以外に見られるのは運がいい」。野鳥に興味はなくても、幸運と言われてうれしかった。
実は高際さんにい願いしたのは、そんな野鳥観察のガイドではなかった。V字滑空を目撃したのは、墓石や神社跡が残る谷中村史跡保全ゾーン。ハート形の人工貯水池(谷中湖)のくぼんだ部分にあたる。宇都宮大教授時代、授業で学生に遊水池を見せる取り組みをしてきた高際さんは退職後、「谷中村の遺跡を守る会」の会長を務める。「皮肉ですが、これだけ豊かな自然を見たら、正造さんー。足尾鉱毒事件を、明治天皇に直訴しようとしたことで知られる田中正造のことだ。渡良瀬遊水地の起源は、日本初といわれるこの公害事件に関係している。
100年たっても「正造さん」 栃木県の旧谷中村は、渡良瀬川が利根川と合流する手前にあった。大雨が降ると、上流からの大水は、やはりかさを増した利根川の流れに押し戻され、村はたびたび洪水に見舞われた。大水は山からの肥沃な土壌もたらす恵みでもあっ、た。しかし、上流の足尾銅山が民間に払い下げられ、生産量が増大すると、水が引いた後に残されたのは、鉱毒を含んだ土砂だった。住民の訴えを退け、鉱毒被害を認めなかった政府は、治水を名目に一帯の遊水池化を計画。谷中村は1906(明治39)年、強制廃村となる。城山三郎『辛酸』は62年に発表され田中正造の再評価につながった小説といわれる。衆院議員を辞し、天皇への直訴に失敗した後の晩年を描く。強制破壊により仮小屋住まいを強いられた16戸の谷中村残留民と、正造は人生最後の日々をともにした。
<わたしは村で死にたい。(中略)この村で野垂れ死にたい。村以外にわたしの死に場所はない」> 田中正造とともに、谷中村の名は歴史に刻まれた。正造の死後、渡良瀬川は遊水池整備に合わせて河道を変更。七曲がりといわれた旧河川などに沿った県境が平地に残された。そこを横切るのが県道9号佐野古河線である。栃木県に4ヵ所、群馬、隊様両県に各1カ所。県道9号が結ぶ各県に、分骨された正造の墓地があると聞き、訪ねることにした。
埼玉県加須市の北川辺西小学校の校庭には、「田中正造翁之墓」が立つ。同県の旧利島、川辺両村は、隣接していた旧谷中村とともに遊水池化される予定だったが、正造が支援した抵抗運動によって県を動かし、廃村を免れた。「北川辺『田中正造翁』を学ぶ会」事務局長の柿沼幸治さん(66)は、「県境が明暗を分けたとも言われます。栃木県は上流に足尾銅山を抱え、そちらを優先した」と説明する。同小の児童たちは6年生で旧村の歴史を学ぶ。「正造さんのお陰、という意識は今も根付いています」
群馬県館林市の雲龍寺には当時、被害民の鉱毒事務所が置かれた。境内には墓碑とともに「終焉之地」の碑が立つ。正造が客死した栃木県佐野市の庭田清四郎邸に近く、正造の密葬も営まれた。正造が1カ月も病に伏し、息を引き取った庭田家の8畳間は100年前のままだった。5年前、「田中正造終焉の家」として市の指定史跡になった母屋を守ってきた理由を、清四郎のひ孫にあたる隆次さん(84)に尋ねると、「予算がなかったからだよ」と照れ笑い。飾らぬ人柄が代々のものなら、病床の正造に気疲れはなかったはずだ。
8㌔北にある同市小中町の正造旧宅前には、「田中正造誕生地墓所」があり、妻のカツと一緒に葬られている。正造は生前、政治活動に忙殺され、幕末に結ばれたカツと同じ屋根の下で暮らすことはほほんどなかった。小中町では、86年に自主講座「田中正造大学」を設立した事務局長の板原辰男さん(66)に会った。学生時代、水俣病や四日市ぜんそくなど公害問題に義憤を覚えた。最近は、東京電力福島第一原子力発電所事故や沖縄の基地問題にまでテーマを広げ、講座を開催している。
「100年たっても、同じ過ちが繰り返されている。正造の思想は古びていません」谷中村を合併し、今は栃木市の一部となった旧藤岡町内には、鳥居をくぐった先に田中霊祠があった。当初は旧谷中村の嶋田熊吉邸の敷地に置かれたが、正造の死から4年して、残留6戸の転移とともに現在地に移された。今も6戸の祖孫たちが、隣接地に暮らす。嶋田稔さん(78)は熊吉の孫。正造に後を託され、城山三郎『辛酸』のもう一人の主人公のモデルとなった宗三は熊吉の弟だ。正造について、祖父から具体的な話を聞いたことはない。若い頃、大叔父に尋ねたこともあるが、正造の名を聞いただけで目に涙を浮かべて、言葉は出てこなかった。「正造さんへの思いがそれだけ強かった。わしらの務めは、その思いをくんで、毎日祠を掃除し、4月に例大祭を執り行うことだけ」東京から来たと言うと、注文された。谷中村が犠牲になることで、首都圏の治水に貢献したことを覚えておいて欲しいという。「毎朝、渡良瀬遊水地に向かって、手を合わせてもらったもいいと思うんだよね」 文・坂本哲史 写真・松本俊

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