2月15日 寂聴 残された日々

朝日新聞2018年2月8日35面:32みんな先に逝く 野中広務さんがどうも御病気らしい。どこの病院に入院していらっしゃるのか知りたいと、ひとりであせっていたのが昨年末からであった。私は長い文筆生活の中で、政治に出ろと、ほとんどの政党から度々、声をかけられたが、それだけは、がんとして一度も心を動かしたことなく断り通してきた。それでも長生きしたせいで、政治家と対談したり、テレビに一緒に出演したりして、親しくなった人も少なくない。
政界を引退されていた野中さんとは、私の行きつけの和食屋(「天ぷら松」を、野中さんが私よりずっと前からの御ひいきの店で挨拶するようになった。私は1階のスタンドの隅を定席として決まっていたので、一緒に盃を合わせたことはなかったが、お互い会えば、やあと、手をあげて笑顔で挨拶を交わしていた。そのうち、野中さんが主役のテレビ番組に時々呼ばれるようになり、親しさを増していった。いつでも野中さんは紳士的な言動で、すっきりしていた。
そのうちニュースキャスターとして一世を風靡した筑紫哲也さんが京都に住むようになった。自分の番組のテレビの中で、肺がんであると公表して、人気テレビ番組も休養していた。筑紫さんとは度々彼の番組に呼ばれたり、芝居や音楽会で偶然会ったり、筑紫さんの故郷の大分県の日田市へ講演に招かれたりして、聡明で魅力的な房子夫人とも仲よくなっていた。京都に住むようになった筑紫さんは髪を剃り、毛糸の帽子をかぶるようになっていたが、顔色はよく、口調も健康当時のままだった。
そんなある日、突然野中さんから筑紫さんと私の2人が、天ぷら松の小室に招待された。3人でいっぱいになる部屋に落ち着いた瞬間、涙ぐんだ表情になった野中さんが、乾杯の盃を置くと、いきなり、自分の身の上を語り出した。私たちは大方のことは知っていたが、野中さん自身の口から、小学5年の時、親友の母から、出自についてののしられた経験を聞かされて、身を固くしてしまった。
「私は彼女の言っていることがよくわからず、家に帰って父親に言われたことを告げ、何のことかと聞きました。その時、父が、実に学術的にそのことをきちんと話してくれたのです。私ははじめて、事の次第を理解すると同時に、それまで抱いていた未来へのすべての夢や希望を自分から打ちくだいてしまったのです。大学へゆくことも学問をつづけることも、すべての希望を捨ててしまったのです。官房長官や自民党幹事長になりましたが、私が首相になるなど、この国でなり得るはずがない。200%の割合で、私は首相になどなり得ませんでした」
圭との帽子をかぶった筑紫さんの頭が垂れていた。その日から野中さんと筑紫さんは少しの時間も合うようにしていた。2人で散歩をしたり、寺の庭に座りこんで話したり、呑みに行ったり。誘われても、とても私のつきあえる頻度ではなかった。筑紫さんは2008年11月7日に亡くなった。まだ73歳の惜しい命だった。
最近私が老衰で病気になる度、野中さんは必ず病院へ見舞って下さったのに、私はついに野中さんの入院中の病院さえ、つきとめ得ないままお別れもできなかった。今頃筑紫さんと2人で朝早くから浄土を歩きながら、寂聴もそろそろ呼んでやらなければなどと話しあっていることだろう。
◇作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんによるセッセ―です。原則、毎月第2木曜日に掲載しています。

朝日新聞ASAの伸光堂西部販売 森林文化協会

ご予約・お問い合わせはお気軽に

Tel0120-740-276

〒352-0011 埼玉県新座市野火止8-14-29

ページトップへ戻る