2月11日 又吉直樹のいつか見る風景

朝日新聞2018年2月3日be4面:鷺原理想郷(千葉県勝浦市) 倒れてしまいそうなほどの強風すれ違った人への妄想が交錯 千葉県勝浦市に鷺原理想郷という場所がある。理想郷とは思い切った名前だ。どんな場所なのか、とても興味がわいてくる。訪れた日は風が強く波も激しかった。正直、歩行すらままならない状況だった。灰色がかった空を見上げても、激しい音を立てる海を眺めても、とてもじゃないが歓迎されているとは思えない。寒い時期、ましてやあいにくの天候だったため、観光客らしき人はほとんど見当たらなかった。それでも、ハイキングコースになっている山道を歩いていると家族とすれ違った。
 善き日になれと 僕は半日過ごして帰るだけだから我慢できるけど、あの家族にとって、この日の風景がどのような印象で記憶されるのか気になった。たとえば、家族が熱狂的な風マニアだったなら最高の一日として刻まれるかもしれない。
息子「お母さん、今度の休みはみんなで突風を浴びに行こうよ」 母「いいわね。突風に吹かれた瞬間、シルエットが綺麗に見えるワンピースがあったはずだけど、どこにやったかしら」 父「この季節の突風はワンピースだけじゃ風邪ひくぞ」 母「それも、そうね。あなたも行けるんでしょ?」 父「そうだな。最近、ビルの間を吹く街風いしか吹かれていないもんな」 息子「何言ってるんだ。毎晩ベランダで夜風に吹かれながら煙草吸っているくせに」 「父「煙草を吸っているんじゃない。風に色をつけて動きを見ているんだ」 そんな家族だったとしたら、見晴らしの良い岩山の頂上で家族揃って風を浴びられたことに満足しただろう。家族にとって善き日になればと思った。
風マニアではない僕からしても、頂上からの眺めは絶景で感動させられたが、少しでも気を抜くと倒れてしまいそうなほど風は相変わらず強かった。途中の道で、二十代の男女も見掛けた。あの二人にも善き日であって欲しい。たとえば、彼等が珍しい音の愛好家だったらどうか。彼「ほとんどの音はもう聞いちゃったかもね」 彼女「そうね。両親に夢を反対された17歳が公園の滑り台から、滑り降りて両足を土に着いた時の音は良かったね」 彼「葛藤が伝わったもんね」 彼女「次の休みに聴いたことのない音を探しに行かない?」 彼「いいね。あっ、キミの心臓音が変化した!」そんな二人なら、この日の風と海の音は楽しめたかもしれない。
尽きぬ話し相手 空を見上げると、風マニアの家族が気持ち良さそうに空を翔び、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を唄っていた。風マニアだと、風に乗って翔べるのかと感心した。ビニール袋のモノマネをして、空高く巻き上げられて行く子供を見て、両親が笑っていた。いつのまにか、珍しい音愛好家の二人が僕の近くで耳を澄ませていた。
「風に乗る家族の音を聴いているんですか?」と質問すると、「いえ、妄想している人の瞬きの音を聴いてるんですよ」と言われて、思わず瞬きをして辺りを見渡すと、激しい風の音が響いているだけで、誰もいなかった。かつて、多くの文人や芸術家がこの場所を訪れ、作品を残したらしい。与謝野晶子もその一人だ。
我が来り上総のはての岬にて聞く潮鳴りも知らぬ君かな 与謝野晶子 なぜ自分は見たことのない風景に憧れるのだろう。一方でなぜかつて見た風景を求めるのだろう。想い出や感傷に浸りたいだけの馬鹿なのだろうか。はっきりとした理由は自分でも解らないけれど、風景を眺めていると飽きることがない。よく喋る風景もあれば、沈黙を貫く景色もある。寛容な情景もあれば、厳しい景観もある。
季節や月日によって変化して行くことを踏まえれば、永遠に話し相手が尽きないということになる。それなら表現することもなくならない。一人でも寂しくないような気さえしてくる。大袈裟ではなく、まだ見ていない風景があるということだけでも生きていくことが楽しみになる。(芥川賞作家・お笑い芸人)

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