17日 私の十本 吉永小百合

東京新聞2017年5月14日2面:夢千代日記【下】譲れなかった「最期」 1981年の「夢千代日記」が大好評で、NHKは82年に5回続きで「続・夢千代日記」、84年に10回続きで「新・夢千代日記」を放送する。
実は86年にも「夢千代日記」の第4シリーズが制作される予定だった。しかし、これは吉永さんの意志で中止になった。「夢千代が新たな恋をする、恋をするというところまではっきり表現してなくても、新たな男性に心をときめかせるというのに私自身が許せなくなっちゃたんですね」
第一シリーズの、かつて駆け落ちまでした旅館の息子(岡田祐介さん)、第二シリーズのお互いが愛を確認する元美術教師(石坂浩二さん)、第三シリーズの記憶喪失の元ボクサー(松田優作さん)。シリーズの中で夢千代は何人かの男性たちと出会い、別れてきた。
「『男はつらいよ』の寅さんなら、何度恋をしてもいいと思います。もちろん『夢千代日記』も現実の世界の出来事ではなくて、ドラマなんだから、次々に前作以上のものを作っていけばいいのかもしれません。でも、私はそういうふうにプロにはなれない。ラジオの子役に応募したのがきっかけで、その後アルバイトのつもりで日活に入って、以来ずっと、基本はアマチュアなんですね。いい意味ではそのことで新鮮に仕事をやれているですが、もっとプロフェッショナルになりたいと思ったこともあります」
そんな吉永さんに提案されたのが「キューポラのある街」の恩師、浦山桐郎監督による「夢千代日記」の映画化だった。「もし。シリーズを終えるなら映画で、という思いはありました。幕を下ろすためには、結局、夢千代が死ぬという設定しかない。脚本の早坂さんをはじめ、スタッフも私もそう思いました。二度演じることができない役を、思い残すことがないほど演じきろう。そう思って撮影が始まりました」
ところが、夢千代の最後のせりふをめぐって、浦山監督と吉永さんの意見が食い違う。「浦山さんは、死の床での『ピカが怖い』というせりふを『ピカが憎い』と変えてほしい、とおっしやったんです。社会派の監督でしたし、そうしたメッセージを込めたかったんだと思います。でも、私はずっとテレビでやってきて、自分なりの夢千代像ができちゃっていたんですね。その夢千代は『ピカが怖い』と言うけれど、『憎い』とは言わないないんです。どうしても『憎い』と言えないと監督に言って何日も話したけれど、一致点を見いだせませんでした」
結局、この場面は「憎い」という言葉はなしに撮影されることになる。吉永さんは、浦山監督とただ一度だけぶつかったこの出来事を今も重く引きずっている。

「自分がどうしても譲れないところを言ったことに関しては、後悔はありません。でも、そのことで監督につらい思いをさせてしまった。この映画の公開後数カ月で、浦山さんが亡くなったのは私のせいだ、寿命を縮めてしまったかもしれない、という思いがどこかにあるんですよ」
苦労しんだのはそれだけではない。懸命に生きる夢千代に励まされていた被爆者たちが、映画の中の死をとても悲しんだということも聞かされました。
「自分で決めたことですが、うーん、間違えたかしら、と悔やんだことがあります」 スターであるとは、大変な重荷を背負って生きるということなのだ。
映画公開の翌年の86年、吉永さんは東京・渋谷で開かれた平和を祈る集会で、初めて原爆詩を朗読した。「夢千代日記」が、きっかけだった。(聞き手=立花珠樹・共同通信編集委員)

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