16日 餓死 孤島で見捨てられ

朝日新聞2017年8月13日23面:戦後72年夏 戦死と向き合う【3】補給なく軍は降伏認めず あの戦争で亡くなった日本軍の軍人、軍属約230万人のうち、過半数が飢餓や栄養失調による戦病死だったとみられている。「お国のため」と万歳で見送られた若者たちの多くはなぜ、戦闘ではなく飢えによって命を失ったのだろう。誰のために。何のために。
福島県白河市でひ孫3人に恵まれ、4世代で住む大塚君夫さん(93)は今も、食品に書かれている「賞味期限」が許せない。コンビニでは期限が来た食品が処分されていると聞く。さらに東日本大震災による原発事故の後は、福島県産というだけで食べ物が廃棄された。「びんたをしてやりたいほど腹が立つ」
あの島では、サツマイモ一つで、命を失った人たちがいたのだから。グアム、パラオ、トラックのどこからも500キロ以上離れた文字どおりの絶海の孤島、メレヨン島に1944年、大塚さんの部隊を含む約6500人の兵力が配備された。午前中に決まって米軍機が来襲し、飛行場や食料庫を爆撃した。軍事拠点として無力となると米軍はもう見向きもせず、部隊は移動手段も補給経路もはぼないまま、放置された。
兵に配られる米は少しずつ減り、最後は1日100グラムになったが、幹部らは増量された。農耕班を作り、サンゴ礁のやせた地でサツマイモなどを作ったものの、収穫はわずかだった。歩けなくなり、やせる。ムシロに寝たきりになり、今度はむくむ。
飢えに耐えかね、畑のイモを盗もうとするものが現れるのも無理はなかった。盗みを見つかった兵が木に縛られ、熱帯の陽光の下に放置されるのを見た。衆人環視の中で、3日で死んだ。現地の人から、バナナの葉で網を作って小魚を取る方法を教わり、大塚さんは生き延びた。島からの生還者は1600人余で、7割以上が死亡した。人間は食物なしでは生きられない。補給のないまま部隊を放置し、降伏も認めなかった当時の軍を、大塚さんはどう思うのか。
「我々兵隊は何を言っても通じないですよ。人間扱いされていなかったのだから」島の最高司令官で、帰任後に自決した北村勝三陸軍少将は、こんな意味の漢詩を残している。「最後には虫やネズミを食べ、長年の国を守る思いは夢のようだ。無数の兵も飢餓に苦しむ。飢えを思えば敵との戦いは何ほどでもない」
第2次大戦での日本の餓死について調べた藤原彰・一橋大名誉教授(故人)の著書「餓死した英霊たち」では、メレヨン島を「孤島の置きざり部隊」という章で紹介している。「降伏を認めない日本軍の非人間性が、もっとも強く表れたのがメレヨン島だった」
補給無視の作戦計画、作戦参謀の独善横暴、精神主義への過信、降伏の禁止と玉砕の強制・・・。同書が挙げる大量餓死の理由だ。「日本軍に固有の性質や条件が作り出した人為的な災害」だと結論づけている。戦後72年。「飢餓の戦場」を生き延びた元日本兵たちは90代を迎えている。証言者は残り少ない。
広島県竹原市で一人で暮らす浜本正義さん(91)は、パラオ諸島に配備された部隊で米軍の空襲を受けた後、終戦まで孤立した。ヘビやトカゲ、バッタ、ネズミ・・・。食べられるものはすべて食べ尽くし、体は極限までやせ、顔は骸骨のようになった。衰弱した者は体中に腫れ物ができ、ウジを自力で払うこともできずに死んでいった。
「南の島に捨てられに言ったようなもの。よう生きて帰ったもんじゃのお」最近の安全保障や健保9条をめぐる議論について、浜本さんは思う。「経験したから分かるが、戦争になったら、どうにもならん。兵隊の命は軽くみられる」食事は今も手作りで、食べ残しは決して捨てずに冷凍して保存している。
(編集委員・真鍋弘樹)

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