15日 ベニヤ艇特攻「軽き命」

朝日新聞2017年8月12日25面:戦後72年夏 戦死と向き合う【2】 「お国のため」問う歌残し 太平洋戦争末期、飛行機だけでなく船による「特攻」が行われた。爆雷を積んだベニヤ板製の簡易なボート。訓練を重ね、死を覚悟していた若者たちは揺らいだ。「お国のため」に捧げる命とは何なのか、と。
 瀬戸内海に浮かぶ江田島(広島県江田島市)。海軍の兵学校があったことで知られるこの島は、かつて陸軍の「水上特攻隊」の秘密基地でもあった。島の最北端にいま、その歴史を伝える石碑が立つ。
《祖国の為とは言え春秋に富む身を国に殉ぜし多数の若者の運命を想う時 誠に痛惜の年に堪えず》
米軍による本土進攻に備え、この島で極秘の訓練を重ねた多くの若者たちが、沖縄やフィリピン、台湾へ送り込まれていった。使われたボートの秘匿上の通称は「連絡艇」。頭文字から「マルレ」と呼ばれた。資材不足の中、速度を出すため、薄いベニヤ板と自動車のエンジンでつくり、船尾には250キロの爆雷を積んだ。
捨て身で敵艦に夜襲する作戦。元隊員たちがまとめた「マルレの戦史」によると、前線へ赴いた計30戦隊3125人のうち6割近い1793人が亡くなった。「死へのパスポートにようでした」。元隊員の深沢敬次郎さん(91)=群馬県高崎市=は言う。沖縄・慶良間諸島に派遣されたが、上陸に備えた米軍の攻撃により、陸に隠していたボートが焼けた。作戦は実行されず、死を免れた。
派遣を控えた1944年8月のこと。上官から「マルレの存在は秘密だ。秘密を守る条件で休暇を与える」と言われ、群馬の実家に帰省した。家族や友人と「最後の別れ」をする機会だが、「隊のことは聞かれてもごまかした」。死ぬ覚悟はできていた。
だが、6歳の時に病死した母の墓前では、少し違った。正直に「特攻隊員として戦場に行き、国のために立派に戦ってきます」と報告すると、内心は揺らいだ。「同じ墓に葬られるかもしれないと想像すると、離れがたくなった」大義のために死ぬなら悔いはない。笑って「神兵」になるー。そんな覚悟で入隊した横山小一さんも、慶良間諸島に派遣される前に休暇を与えられ、故郷の秋田から広島に両親を呼び寄せた。当時19歳。地元の米で握ってくれたおむすびを食べ、「川」の字になって寝た翌朝、告げた。
「上官から『日本の国のために死んでくれ』と言われた。人は必ず1度は死ぬ。親孝行もせず申し訳ないが、あきらめてくれ」小一さんは45年3月、沖縄で米軍から急襲され、亡くなった。両親とのやりとりは、小一さんの弟が両親から聞いた内容として記録に残していた。
大君の/御盾となりて/捨てるみと/思へば軽き/我が命かな》小一さんはこの歌とともに、遺言を残していた。天皇の盾となり、捨てる命は重いのか、軽いのか。小一さんの弟は92年、これらを刻んだ石碑を実家の庭に立てた。「多くの犠牲を忘れてはならない」との思いからだった。
「国を批判できない時代のぎりぎりの表現では」。実家でいま暮らすのは、小一さんのおいにあたる和仁さん(60)だ。「負けると分かっていながら、拳を下げれない大義とは何か。国のために捨てる自分の命とは何か。真剣に考えていたんだと思う」
小一さんは、ほかにも歌を書き残していた。《大君に/捧げまつりし/命なれ/無駄に死するな/時代来るまで》
「特攻への出撃というよりは、戦争が終わった後の平和な時代を願っていたのではないでしょうか」と和仁さんは語る。(岡本玄)

 

 

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