12月20日 野球の国から 黒田博樹

日刊スポーツ新聞2017年12月16日2面:最初から白旗 優しすぎた 1学年上で、のちにロッテに入る薮田安彦らが引退しても、黒田の立場は控え投手のままだった。新チームとなり、それまで野手と併用されていた溝下進崇と西浦克拓が、投手に軸足を置くようになった。決断したのは、コーチから監督になった田中秀昌だった。
田中 上山烈前監督のままであれば、黒田をそのままエースに立てたかもしれない。でも私が監督となり、甲子園にも出ないといけないと感じていた。どうしたら激戦区の大阪で勝ち上がれるかと考えたとき、西浦と溝下も投手としてやらせないと無理だと思った。
田中は溝下と西浦を呼び「激戦の大阪を勝って甲子園に行くには、黒田1人では無理だ」と伝えた。溝下と西浦に投げ込みを命じるため、練習試合では黒田の登板が増えた。それでも結果を残すことはできなかったが、不思議と黒田に悔しさはなかった。まだ、背番号1を背負う覚悟ができていなかった。
 黒田 自分が1番手になるとは思っていなかった。チーム状態を客観的に見て、自分がもし監督でもそうしたと思う。あのとき自分がエースになるようではいけない。同時に、そこまでの自信がなかった。1番を背負う責任が自分にはなく、不安の方が大きかった。
溝下と西浦に、投手としても勝てるとは思っていなかった。追い付き、追い越そうとも思っていなかった。「その頃は諦めていた。こいつらには勝てないなと。そこまで気持ちを上げられなかった。1日1日を消化して、3年間終わってくれないかという気持ちが強かった」。走らされる日々は最上級生になっても続いた。そんな日々を乗り越えるのに必死だった。一方で抜群のコントロールを武器とする左腕溝下と力強い球を持ち味とする西浦は、投手として信頼を勝ち取った。気づけば2人が上宮の2枚看板となっていた。
ただ3番手に追いやられても、黒田がくさることはなかった。激しくチーム内で争う一方で、部員同士の関係は良好だった。全部員が自宅から通っていたこともあり、練習後は数人で電車を乗り継ぎ帰宅した。新チームの主将に就任した筒井壮(現阪神2軍守備走塁コーチ)は懐かしそうに振り返る。
筒井 帰りの電車は憩いの場でしたね。お菓子を買ったり。もう楽しくて、(野球のことを)相談し合うとかいう雰囲気はなかった。クロはゲラ(笑い上戸)なんで、笑うのが大好きでおちゃめなキャラでしたよ。
黒田に勝利するように主戦となった溝下も、黒田と仲が良かった。「クロは優しい。誰かと特別にというよりも、まんべんなく優しかった」と溝下。エース争いに敗れ、ひたすら走らさる日々にあって、黒田は愚痴一つこぼさなかった。強豪校の上宮にも一般入部の生徒がいた。スポーツ推薦で入部した生徒には一定のプライドや責任感が伴うため、しばしば距離ができるのもだが、黒田は一般入部の生徒とも仲が良かった。上宮野球部に3つある部室も、一般性が使用する「1号」部屋を使用。自然と溝下も輪に加わった。強豪校で見られるチーム内の激しいポジション争いの中にいても、黒田は優しかった。殻を破り切れない黒田の姿を、チームメイトはもどかしく思っていた。そんな黒田が、ようやく周囲の期待に応えたのは2年秋の近畿大会。上宮の3年間で最も輝いた大会だった。(敬称略)(前原淳)

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