12月16日 忠臣蔵と赤穂事件

朝日新聞2017年12月10日35面:切腹は46浪士・庶民の支持で人気演目に 私たちが抱く「忠臣蔵」のイメージは以下のようだ。1701(元禄14)年3月、江戸城松の廊下で、勅使の接待役だった赤穂藩主・浅野内匠頭が、指南役の高家を束ねる吉良上野介に斬りかかった。浅野が吉良から要求された賄賂を渡さなかったり、赤穂の特産品である塩の製法を教えなかったりしたため、いやがらせをされたからなどと言われる。
吉良は逃げおおせたが、幕府はその日のうちに、浅野に切腹を命じ、弟で養嗣子でもある浅野大学を閉門(謹慎)に処す。一方、無抵抗だった吉良は「お構いなし」となった。「喧嘩両成敗に反する」と憤った赤穂藩家老・大石内蔵助は、02年12月14日、旧赤穂藩の浪士たちと終結、翌日に江戸・本所んびあった吉良邸に討ち入る。首をとると、高輪にある泉岳寺の内匠頭の墓前に捧げた。03年2月、大石らは切腹に処されるが、浅野大学は10年にお預けを解かれ、500石の旗本として再興を果たした。
だが、このような「通説」は再検討した方がよさそうだ。早稲田大学の谷口眞子教授(日本近世史)は著書『赤穂浪士の実像』で、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」と実際の赤穂事件が混同されていると指摘する。谷口教授によると、「忠臣蔵」は「時代や登場人物の名前を変えているばかりではなく、演じられる場面のほとんどが創作によるもので、史実とはほど遠い」という。
たとえば、高師直(こうのものなお)(モデルは吉良)が塩次判官(浅野)に罵詈雑言を浴びせ、我慢できなくなった判官が斬りかかる名シーンは完全な創作。また、討ち入りを当初から決意していたのは、史実では堀部安兵衛だが、「忠臣蔵」は異なる。君主切腹の場を見ていた大星由良之助(モデルは大石)が、最初から家臣団の中心となって計画したことになっている。
なぜ混同が起きたのか。谷口教授の研究になると、赤穂浪士の吉良邸襲撃は人々の耳目を集めた大事件で、浪士切腹の12日後には早くも、「曙曽我夜討」という歌舞伎が上演され、奉行所から中止命令が出されている。さらに討ち入りから47年目の1748年には浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が上演され、その翌年には歌舞伎となって、芝居や映画でも上演されるうちに、赤穂事件が「忠臣蔵」として記憶されるようになった、とみる。
これら以外にも、史実と「忠臣蔵」の相違点は少なくない。まず、事件の原因自体、よくわかっていない。浅野は聴取に「私的な遺恨から」と述べたものの、遺恨の内容についてまったく話さなかったからだ。また、四十七士と言うのの、切腹したのは46人。残る1人の寺坂吉衛門は討ち入り後に逃亡したとも、広島藩お預けの浅野大学のもとに赴いたとも言われる。そろいのダンダラ模様の衣装も後世の演出だ。れにしても、浪士たちはなぜ、討ち入りに固執したのか。東京大学の山本博文教授(日本近世史)は著書『これが本当の「忠臣蔵」』なおっで、その背景には「かぶき者」的心性があったと説く。
徳川綱吉が将軍だった元禄期は、仲間のためには命も投げ出す「かぶき者」の論理や気風がいまだ色濃く残っていた。斬りかかれたら、理由を問わず、刀を抜いて応戦する。斬りかかった以上は相手を斬り殺す。それが当時の武士道であり、討ち入りは、武士たちの面子をかけた戦いだったというのだ。
実際、討ち入りは庶民の喝采を博し、その後、史実を超えたエンターテイメントとしての「忠臣蔵」が定着する。当時すでに、登場人物にちなんだ名前の食べ物などがはやった。谷口教授によると、身を捨てて主君の敵討ちをした浪士たちの評価は、明治以降、時代によって揺れ動いてきた。国家主義・国粋主義の高揚期には自己犠牲の精神が国威発揚のためにもてはやされ、逆に大正デモクラシー期には否定された。今はどの時代にあてはまるのだろうか。(編集委員・宮代栄一)

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