12日 平成と天皇 平和を求めて「上」

朝日新聞2017年8月10日3面:慰霊の歩み硫黄島から 「長崎は中継ないんですね」。天皇陛下はしばしば、あまり注目されない物事に目をかける。皇太子時代の1981年8月。陛下は会見で、広島の原爆投下の日や終戦の日に全国で式典のテレビ中継があるのに、長崎の投下日に中継がなかったことに触れ、「やはり同じような被害を受けたわけだから、当然同じように扱われるべきものなんじゃないかと思う」と述べた。NHKが長崎の式典を全国中継するようになったのは、2000年になってからだった。
またこの会見で陛下は「どうしても記憶しなければならない四つの日」として、沖縄終結の日、広島と長崎の原爆の日、終戦記念日を挙げた。天皇、皇后両陛下は毎年、この日には黙祷を欠かさない。9日も皇居・御所で、長崎市の平和祈念式典に合わせて黙祷した。
「何もない島」遺族も驚き 94年2月に硫黄島を訪れたもの、あまり注目されなかった太平洋戦争の激戦地を「忘れてはならない」との思いがうかがえる。硫黄島では45年2月から3月にかけての戦いで、日本人戦死者は2万人以上にのぼったが、その半数以上の骨が今も残されたままだ。
両陛下は小笠原諸島の日本復帰25年を機に、東京都の要請を受ける形で硫黄島を訪れ、日本軍の戦没者慰霊碑に花束を供えた。ひしゃくで水をかけ、深々と拝礼する姿に、カメラマンとして同行した河崎文雄さん(73)はシャッターを切りながら「よく来てくださいました」と胸がいっぱいになった。父・吉田猛さんも現地で戦死したとされるが、亡がらは戻っていない。
硫黄島では米軍も約2万9千人の死傷者を出した。だが、2006年に米国のクリント・イーストウッド監督が俳優の渡辺謙さんを起用して映画化するまで、広く注目を集めることはなかった。両陛下の訪問はその12年前。河崎さんは「あんなちっぽけで、何もない島に足を運んでくれるとは思わなかった」と話す。実は、宮内庁でも硫黄島訪問には慎重論があがった。本土防衛の砦のようにされ、強制疎開させられた島民らには皇室への複雑な思いがあったからだ。民間機の就航もなく、警備上の課題もあった。
それでも、「陛下のお気持ちは強かった」と元側近は振り返る。「戦後50年を翌年に控えた時期で、振り返ればこれが慰霊の旅の始まりだったのかもしれない」と語る。訪問を終えた両陛下は「祖国のために精魂こめて戦った人々のことを思い、また遺族のことを考え、深い悲しみを覚えます。今日の日本が、このような多くの犠牲の上に築かれたものであることに深く思いを致したく思います」との感想を明らかにした。この言葉通り、約1年5ヵ月後の95年7月、両陛下は皇居・宮殿に硫黄島の戦没者遺族らを招いた。「はるかにこの地より当時をしのび、戦没者を追悼したく思っています」と語った。
「歴史伝える」広がる思い 終戦後に旧満州などから日本に戻った引き揚げ者のことも、両陛下は長く気に留めてきた。昨年11月、旧満州に入植した「満蒙開拓団」の歴史を伝える満蒙開拓平和祈念館(長野県阿智村)を訪れた。公務ではなく、私的旅行としてだった。天皇陛下は80~90代の引き揚げ者3人と懇談した後、こう口にした。「こういう歴史があったことを、経験がない人たちに伝えることが大切だと思います。そういうことを経て今の日本が作れたわけですから」
両陛下の訪問後の半年間で、来館者は前年比6割増になった。案内役を担った寺沢秀文・副館長兼専務理事は「広く知られることはなかった記念館だったが、両陛下の訪問で光が当たるようになった」と話す。高齢で来館できなかった引き揚げ者らも、家族に連れらて足を運ぶようになったという。(多田晃子、島康彦)

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