11月8日 サザエさんをさがして 沖縄返還合意

朝日新聞2018年11月3日be3面:裏切られ続けた地元の期待 おじさんたちが口角泡を飛ばして議論しているのは「核抜き・本土並み」について。半世紀前、時の佐藤栄作政権が掲げた沖縄返還交渉のキャッチフレーズだ。掲載日の6日前、1969年11月21日(ワシントン現地時間)、佐藤首相とニクソン米大統領との首脳会談で、72年に沖縄を核抜き・本土並みで返還することと、日米安保条約の自動延長などが合意された。「核抜き・本土並み」とは、沖縄の米軍基地から核兵器を撤去し日米安保条約や地位協定を本土並みに適用するというものだ。
変換歓迎の声がでる一方、日米軍事体制の強化だとの批判は強かった。「ベトナム戦争が激化する中、国民の半数近くが安保条約に反対でした。漫画のように世論は分れていたのです」と我部政明・琉球大学教授(63)は語る。日米共同声明では沖縄の基地の整理縮小は触れられなかった。「即時無条件全面返還」を掲げていた屋良朝苗琉球政府行政主席(のちの初代沖縄県知事)は復帰決定を「評価する」としつつも、「県民に不当な差別と忍従を強いる」として安保体制を批判。「基地の固定化は県民の願いと相いれない」と苦渋の表情を見せた。
それでも「本土並み」という言葉は人々をひきつけた。本土では60年ごろまでに米軍基地が大幅に整理縮小されたからだ。「沖縄も本土と同じように米軍基地が整理縮小されるだろうという幻想を抱かせました」と我部さんは言う。 しかし周知の通り、この期待は裏切られ続ける。68年当時、米軍専用施設全体の面積のうち50.1%が沖縄にあった。半世紀後の今、70.6%が集中している。国土全体に占める沖縄の面積は0.6%にすぎない。
さらに首脳会談では、有事の際、沖縄に核の再持ち込みを認める「密約」もかわされていたことが、後に明らかになった。「基地を米軍が可能な限り『自由使用』できることを前提に交渉が進んだことも後でわかりました。今思うと、69年11月は、沖縄の基地の長期固定化を決定づける転換点だった。その後安保そのものが、政治の争点にならなくなったんです」と我部さんは言う。佐藤首相は返還合意を「大成功」と総括し、この年12月の総選挙で自民党は圧勝した。
僧侶で元読谷村村議の知花昌一さん(70)は当時をこう振り返る。「ベトナム戦争の負け戦に米兵だちが荒れていく様子が沖縄では目に見えてわかりました。そんな状況のなかで、祖国復帰運動は反戦復帰運動に変わっていくんです。日本の平和憲法に憧れた。返還で望んだことは実現しなかったけれど、平和憲法がある以上、希望は失っていない。沖縄が負けると思ったことは一度もないです」
そんな知花さん、今回の漫画のオチにいささかショックを受けたという。火花を散らすふたりの論争は、分譲地の売り出しを待つ間の出来事だった。高度成長期のただなか、本土はマイホームブームにわいていた。人々は受け付けの1週間前から寝袋持参で並んだ。「同じ座り込みでも・・。あのころ、本土では沖縄以上に激しい闘争があったものと思っていました。やっぱり沖縄の基地問題より目の前の生活第一だったのでしょうね。本当は沖縄の問題ではなく、日本の問題、自分たちの問題なのですが」 (林るみ)
*写真は、沖縄の復帰運動では女性たちも「沖縄を返せ」と書かれた鉢巻を締めて集会に参加した=1969年、那覇市

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