11月25日 平成経済 グローバル化と危機

朝日新聞2017年11月19日4面:つぶれないはずの大手が 拓銀破綻 高級ホテル共倒れ 1997年11月、日本経済は危機に瀕していた。北海道拓殖銀行や山一証券が相次いで経営破綻し、これまで「つぶれない」と思われていた大手金融機関の「不倒神話」が崩壊した。日本の長期停滞を引き起こした金融危機から20年。負の影響はいまも続いている。平成の日本経済に大きな影響を与えた金融危機とグローバル化。その象徴の一ついえる街がある。
中国の国慶節(建国記念日)の連休だった10月上旬、札幌から車で約2時間の温泉地、洞爺湖畔には大型観光バスが列をなしていた。中国などからの観光客がバスから降りてきて、湖と羊蹄山をバックに写真を撮影する。友人と旅行していた中国・広州の会社員潘翠敏さん(26)は「自然に囲まれてリラックスできます」と笑顔を見せた。世界最大級の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」のこの夏の調査で、外国人の写真投稿が最も多かった日本の観光地が、洞爺湖だった。洞爺湖町の外国人宿泊客数は昨年度28万人で、全体の4割にのぼる。特に中国人は3年間で4倍と急増し、サイトには中国語の口コミが並ぶ。
洞爺湖を見下ろす山の上に、高級リゾートホテル「ザ・ウィンザーホテル洞爺湖リゾート&スパ」がそびえ立つ。2008年のG8サミット(主要国首脳会議)会場となったホテルは、札幌市の建設・不動産会社カブトデコムが1993年に「ホテルエイペックス洞爺湖」として開業した。床にはイタリア製大理石が使われ、大きなガラス越しに湖のパノラマを望む。バブル絶頂の89年に計画されたリゾートの総事業費は約700億円。そのほとんどを拓銀が融資した。
97年11月17日、都市銀行として初めて経営破綻に追い込まれた拓銀。「破綻の最大の要因」と指摘されたのがカブトデコムだ。バブル期、都銀で最下位だった拓銀は、北海道以外の有料貸出先を他行におさえられていた。そこで「貸出先育成」を名目に新興企業向け融資を拡大する「インキュベーター路線」という戦略をとった。その代表格がカブトデコムだった。カブトグループへの融資は総額4千億円を超えた。
バブル崩壊で地価が逆回転すると、乱脈融資の結果は不良債権として積み上がった。拓銀破たんから4カ月後、ホテルも閉鎖した。「バブル崩壊で観光客が落ち込んでいた温泉街に追い打ちをかけた」。当時の町長、長崎良夫さんは振り返る。町の宿泊客は93年度の96万人に達したが、その後減り続け、00年の有珠山噴火もあり30万人に激減。ホテル・旅館は休業を余儀なくされた。
街を救ったのが、外国人観光客だ。宿泊客数は20年前の15倍に増えた。中国などアジアの客が多く、土産物店の店主は「化粧品が人気で、1人で7万~8万円買う人もいる」と話す。旺盛な需要に期待し、中国マネーもなだれ込む。洞爺湖畔の閉鎖していたホテルを中国企業が買収し、昨年末に営業を始めた。社長は「今後も観光客が増える。買収に迷いはなかった」と語る。札幌市にある中国人経営の飲食業者は、100億円規模を投じたホテル建設を計画している。
バブル崩壊と金融危機で沈んだ街は、中国などアジアの成長を取り込んで様変わりした。ただ、北海道経済に占める観光業の割合は、製造業や建設業を下回り、決して大きくはない。道経済の規模は20年前より1割程度減り、拓銀破綻前の水準に戻っていない。銀行の破綻が、経済に与える打撃は大きい。
「土地神話」抜け出せず 賞与直結 融資競い不良債権化 97年に本格化した金融危機は、98年に日本長期信用銀行と日本債券信用銀行の破綻へと広がった。「バブルが崩壊しても清算されずに残っていた負の遺産が一気に顕在化した」。当時、大蔵省銀行局総務課長だった佐藤隆文・元金融庁長官は振り返る。
90年代に入り地価の下落が始まったが、「土地神話」は消えなかった。都内のある大手行の支店では、バブル崩壊後も支店長の号令の下、片っ端から登記簿を調べ、担保になっていない土地の活用を促したり、他行からの借り換えをお願いしたりする日々が続いた。元行員は「地価や景気はまた良くなると思っていた」という。支店ごとの営業成績は、給与や賞与といった待遇面にも反映された。大手行上位の成績優秀な支店長なら、年2回ある賞与の総額が1千万円近くに達する人もいた。別の大手行元幹部は「半年に一度、ベンツが買える」と同僚とささやきあったことを覚えている。
70年代にGDPに占める割合が70%程度だった銀行の貸出残高は、90年には100%を超えた。戦後の日本経済を支えてきた製造業の比重は下がり不動産やノンバンク向けの割合が大幅に上昇した。
しかし、地価が下落し、不動産向け融資は回収が難しい不良債権となった。本来、引き当てを積んだり、債権を放棄したり、融資先を整理したりして不良債権を処理する必要があった。それでも多くの銀行は赤字決算を避けようと、抜本処理を先送りした。
金融危機20年 今も傷痕 不良債権問題は、金融危機の後も日本経済の重荷であり続けた。日本銀行の元幹部は「90年代前半には不良債権が巨額にのぼるのは分かっていたが、景気回復すればなんとかなるという銀行の思いは最後まで消えなかった」と説明する。金融危機後、株価は下落した。03年にりそなホールディングスに対して約2兆円の公的資金を投じ、実質国有化するまで、株価は本格的な上昇に転じることはなかった。銀行の不良債権問題は収束に向かっていない、と市場から見られていたのだ。
バブル崩壊後の不良債権処理額は、当初の想定を大きく上回る約100兆円。うち97年度からの3年間で約3分の1を占める。銀行の資本増強のために投じられた公的資金は総額12兆円を超えた。その間、不良債権とされたそごうやダイエーなど有名企業の経営が行き詰った。20行近くあった大手銀行は再編を繰り返し、三つのメガバンク中心に集約された。金融危機の影は20年たったいまも引きずっている。
日銀OBの深尾光洋・武蔵野大教授は「金融危機はデフレが定着する決定的な引き金になった」と指摘する。物価の動きを示すGDPデフレレーターは金融危機の起きた97年以降、下落が加速し、14年まで上昇に転じていない。日銀がゼロ金利や量的緩和に踏み込んでも、デフレから抜け出すことはできなかった。
慶応大の小林慶一郎教授は、長期停滞のきっかけになったと見る。90年代以降、国の借金はふくらみ続け1千兆円を超えた。「90年代は、いまの日本が抱える財政悪化や人口問題への対応を本来すべきだった。しかし、バブル後の景気対策や金融危機対応に追われて、できなかった」
(篠健一郎、高田寛)

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