10月8日 1958年(昭和33年) スーパーカブ発売

朝日新聞2018年10月3日4面:藍商の「転身」ヒット支えた 女性が乗りたくなるー。これがホンダの小型バイク・スーパーカブの理念の一つだった。1957年から開発に取り組んだチームに、当時の藤澤武夫専務が妻の助言を伝えた。「エンジンは見えないほうがいい」。むき出しだと女性は怖がるという。このためエンジンを覆い、乗り手の足元を水跳ねや寒風から守るフロントカバーを取り付ける。操作しやすい軽い車体をめざしてフロントカバーは樹脂製と決め、三井石油化学工業(現・三井化学)が発売した新素材を使った。
販売を担う藤澤専務は試作車を見て、「月3万台売れる」と言った。国内生産の二輪車が全体でも月4万台程度の時代だ。開発者らは仰天したが、58年の発売から2年足らずで月産4万台を超えた。大ヒットしたカブを特徴づけるフロントカバーに新素材の樹脂を採用するよう働きかけたのが、素材を売る指定商社だった森六だ。やがてホンダは材料をメーカーから直接買う方針に転じる。やむなく森六は樹脂部品の製造に乗り出し、ホンダがカブの生産工場を建設した三重県鈴鹿市に65年、自社工場を建てた。
ホンダの躍進を支えたカブに時代の流れを読み、「転身」を図った森六は江戸前期に阿波(徳島)で創業、特産の藍と肥料を商っていた。彼ら藍商人の権勢を物語る遺構が徳島市の隣の藍住町に残る。森六より後発の藍屋の主・奥村家の邸宅だ。うち13棟が町に寄贈され、「藍の館」の名で公開されている。書院風の西座敷は明治中期の1887年、母屋に接して新築された。各10畳の上の間と下の間を仕切る欄間には大阪から招いた名工が舞楽の彫刻を施した。残された普請帖には欄間の工費100円とある。館長の阿部利雄さん(73)は「そのころ豪農の家1軒が建った金額です」。贅を尽くした座敷で当主は藍の買い付けに訪れた顧客をもてなした。13代目の奥村正明さんは生前、こう語っていた。「『番頭政策』といい、うちの先祖は商売に手を染めず、番頭、つまり支配人が全て取り仕切っていました」
藍の栽培には大量の魚肥や油粕が要る。水運に恵まれた東京・深川には肥料問屋が軒を連ね、北海道の鰊粕や大豆粕を扱った。奥村家は明治初め、深川に支店を出して肥料を売り始める。ところが、明治後期に海外から安い人造藍が入り、藍から肥料へ軸足を移して苦境を乗り切った。深川の肥料問屋は明治~大正の最盛期に36軒前後。うち伊勢の湯浅屋の支店は映画監督小津安二郎の父親が仕切った。この界隈で現在も肥料の卸売りを営むのは戦後、徳島から本社を移した奥村商事ぐらいという。社長は奥村家14代の友三さん(49)だ。「不動産とか他のものに手を出さず肥料に特化したのが、いままで続いた秘訣でしょうか」
一方、のちに東京へ本社を移す森六も明治中期、深川に支店を置いて肥料を扱うが、歩みは対照的だ。醬油醸造や化学染料の輸入、戦後は塩化ビニール製品の販売などを経てスーパーカブに行き着き、ものづくりの道へ。社員がホンダの研究員と共に研究開発に携わり、ホンダの海外展開に伴って北米やアジアに生産拠点を設けた。いまや国内に130人、北米に100人の研究開発職を擁する。カブの生産が世界で累計1億台に達した昨年、東証1部上場を果たした。森六ホールディングス社長の三輪繁信さん(70)は創業家以外からの初の経営トップだ。「カブに取り組まなかったら、会社は現在の姿になってはいないですね」
森六を転身・飛翔させたカブの基本線は60年間変わらない。タイヤのサイズについて開発当時、ホンダの本田宗一郎社長が原寸大の模型に跨って、足を着きやすく小回りも利く17㌅に決めたが、既製品がない。売れる保証のないバイクのために設備投資をする大手メーカーはなく、小さな会社が引き受けた。モデルチェンジのたび、開発責任者が白紙に戻して検討を重ねても結局、17㌅に落ち着いた。「カブの生き字引」といわれるホンダ広報部の高山正之さん(63)は「カブは会社の歴史そのもの」と言う。「カブがなければ自動車も造らなかったでしょうし、いまのホンダはない」本田さんが陣頭指揮して生み出し、現在も生産される商品はカブのみである。(田中啓介)

 

朝日新聞ASAの伸光堂西部販売 森林文化協会

ご予約・お問い合わせはお気軽に

Tel0120-740-276

〒352-0011 埼玉県新座市野火止8-14-29

ページトップへ戻る