10月3日 人生の贈りもの 作家 浅田次郎【7】

朝日新聞2017年9月26日30面:あの一冊 逃していまだに後悔 やっぱり大学へ行けば良かったと思う。知識って、自己流だと体系づけられていないから、回り道なんだよ。ちゃんとした先生について4年間やっていたら違っていただろうなと、すごく思うね。≪自力で学んだ多くは、東京・神田の古書街だった≫
長いつきあいです。カレー屋があるんだけど、僕が一番食べたメニューはそこのカツカレー。マスターは僕の人生をずっと分かっているはずなんだよ。でも「いらっしゃい」「ありがとうございました」だけ。あの人に色んなものを教わった。だって表情も味もまったく変わらないんだよ。いまでもたまに行きます。
でも、お金を使う順序は決まってました。飯より本。空腹は我慢できるんだけど、本は消える。一期一会なんだ。いい本を見つけたけど、高くて買えない時は脚立持ってきてね、次に買おうと棚の一番上に入れるんだよ。それでもなくなったりする。
今でも取り返しのつかない痛恨の一冊があって。満州語辞典。僕が20代前半のとき、何千円もしたんだ。バイト代じゃ買えないから、隠した。それがないんだよ。中国語じゃなくて誰も使っていない満州語だよ。勉強しているやつがいるんだよ。どういう人が買っていたのか店のオヤジにきいたもん、「あれ売れちゃったんですか」って。そしたら「ああ売れた」って。
それが『蒼穹の昴』を書くときになっても響いて、満州語辞典がないんだよ。簡単なのは手に入れたんだけど、あれはこんなに厚かったって、いまだに。『中原の虹』に、今では誰も知らない満州語の会話が入るわけ。薄っぺらいガイドブックでそれをやってるからさ。分かる単語だけでストーリーを作ったりしているんだよ、どうしても言葉をいかしたくて。ああ、あの1冊があればって、いまだに思っています。
あの時はたぶん、飯を食っちゃたんだな。事典を買わずにカツカレーを食っちゃった。やっぱり「飯か学問か」となったら飯は後回しです。(聞き手高津祐典)

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