10月12日 みちのものがたり

朝日新聞2018年10月6日be6面:青木繁「海の幸」を生んだみち(千葉県)愛憎渦巻くロマンチスト 海面は穏やかだ、おっと。舳先が不意に上を向き、よろめく。3千ト㌧を超すフェリーも、大波には揺れた。7月半ば、神奈川県横須賀市から東京湾を渡り、房総半島の南端に向かう。天才画家が歩んだ風景を追うために。1904(明治37)年7月、東京美術学校を卒業した青木繁ら4人の男女が房州を写生旅行した。1ヵ月ほど滞在した千葉県館山市由良で青木は「海の幸」を描く。前年に黒田清輝らがつくる洋画団体白馬会の展覧会で白馬賞を受けていた青木は、この絵で名声をさらに高めた。
大きなサメを担いで進む漁師たちの身体は、夏の日に照らされ赤く焼けている。その中央で正面を見つめる白い顔。女性的な面立ちのモデルは、恋人の福田たねだ。栃木県芳賀町の裕福な呉服商の家に生まれ、東京の洋画塾・不同舎で青木と出会った。アジサイの絵を手ほどきされてから親しくなった。画材を買えないほど貧しい青木は、友人の絵の具を勝手に使っては「俺が描いた方がいいのだ」とうそぶいた。自信家で傲慢だった反面、浪費主義に傾倒。故郷の福岡県久留米市から上京の際は島崎藤村の詩集「若菜集」を手にしていたという。ロマンチックな短歌も残している。<青畳ピアノの蓋を開け撥ねて奏つややの字の君が袖振る>
美術学校の卒業写真で青木が手にしたのはアジサイだった。旅に同行したのは幼なじみの坂本繁二郎に、後輩の森田恒友。青木と熱い関係だった、たねと一緒では、さぞ居心地が悪かっただろう。「僕は海水浴で黒んぼーだよ(中略)砂ヂリヂリとやけて/風ムシムシとあつく」友人の海野満雄に宛てた青木の手紙で、布良は熱帯の島のように書かれている。猛暑の今夏、都心でアスファルトからの照り返しを浴びていた記者には、湿度の程よい、懐かしい暑さに感じた。
青木らが滞在した小谷家は網元の家だった。当主、4代目喜録の娘で6歳だったゆきは、4人がいる奥の間に近づいてはいけないと言われていた。人の気配はするが静かなので、障子に穴を開けてのぞき込んだ。「女の人が、裸で絵を描いてもらっていた」今も布良に住むゆきの孫の由喜枝さん(64)によると、幼いころは青木の後を追ってか、多くの若い画家が布良を訪れ、小谷家にも寄った。教科書に載っている「海の幸」を親に見せると「うちで描いたんだよ」と言われた。
京都文教大学の松田真理子教授(医療心理学)は「青木はたねを失う予感があり、どこかで望んでいた面がある」とみる。ロマンチストのファム・ファタール(男を滅ぼす魔性の女)として。願いがかなったか、たねが青木の子を身ごもってから、二人の関係はおかしくなる。注目されても絵は売れない。青木は久留米の父から姉と弟の世話も託され、貧乏が極まった。夜中に泣いて怒り、刃物まで振るいだした。翌1905年、青木は身重のたねを連れて再び房州へ向かう。三浦半島にも渡り、浦賀水道を船で往復したことから、松本清張は「青木がたねの流産か死産を期した」と、ミステリー作家らしい推理をしている。
結局、たねは男児を産み、幸彦(さちひこ)と名づけた。青木は転落していく。1907年、満を持して東京勧業博覧会に出展した「わだつみのいろこの宮」が三等末席という低評価に終わり、失意のうちに帰郷。たねと幸彦とは一期の別れとなった。久留米でも実の母きょうだいと衝突し、見放された青木は九州を放浪した末、結核を患い1911年3月に福岡市の病院で死去。28歳だった。日本人画家の近代洋画で初めて重要文化財に指定された。たねは1910年に別の男性と結婚、3男4女とともに幸彦を育てた。
「傑作」にはモデルがいた 「海の幸」の研究が、布良で進んでいる。着想の経緯については、写生旅行に同行した坂本が「大漁陸揚げの光景を見た私の話を青木が聞き、空想で描いた」と回願している。布良崎神社の例祭でみこしを担ぐ姿を描いたという説もある。布良漁協の元組合長、島田吉廣さん(68)が20年ほど前、自身が写った祭りの写真を見て気づいた。「サメを担ぐ漁師の肩の高さが一緒。これ、みこしじゃないのかな」当時の例祭で、みこしの担ぎ手は女装していた。青木が描いた下絵には姉さんかぶりの人がいたという。
青木が神話の里・布良を訪れたのは、同郷の詩人高島宇朗に風光明媚の地と聞いたからとされる。青木は日本をはじめインド、ギリシャの神話、聖書に題材をとった。NPO法人安房文化遺産フォーラムの代表で郷土史家の愛沢伸雄さん(66)によると、4代目喜録の義妹の夫は美術雑誌編集者と近い関係にあった。この人物から小谷家に、有望な画家生をもてなすよう口添えがあった、との仮説を立てている。制作過程も見えてきた。61年、76歳のたねに館山市職員が聞き取り調査。青木は小谷家の使用人をモデルに使った。絵に使う金粉が足らず、布良から30㌔はど離れた町まで買いに行った、といった証言を得た。青木も友人海野への手紙で「モデルを沢山つかって居る」と記している。天才伝説を膨らませるのは、むしろ周囲の妄想かも。
青木らが布良に着いたころ、日露戦争が始まって5ヵ月が経っていた。小谷家の当主喜録は、海難救助にあたる布良救難所の看守長も務めた。当時の救難所はロシア艦隊の動きを見張り、中央に報告した。「戦時下の切羽詰まった状況のなか、青木なりに『海の幸』で戦争に向き合っていたのでは」と、愛沢さんは考える。反戦か、戦争犠牲者への鎮魂か・・。郷土史家の研究は続く。夭折の天才と青木を惜しむ声とは別に、福岡大学の植野健造教授(日本近代美術史)は「長生きしても、凋落するしかなかったのでは」とみる。若くして才能の開花した芸術家が、後半生で代表作を残せない例は多いからだ。
青木とたねには、不思議な感情が渦巻いていたようだ。正気を失った青木はたねをののしった。一方で「わだつみのいろこの宮」の豊玉比売(とよためひめ)、強いまなざしに芯の強さを漂わせる「女の顔」など、たねをモデルにした絵を描き続けた。たねは夫の死後、再び絵筆を取った。68年に亡くなるまで青木の悪口は一切言わなかったという。松田教授は「天才画家の全てを許したのではないか」と考えている。幸彦誕生の翌1906年、青木は「日本武尊」を描く。日本神話で多くの武勇伝や悲劇が語られる英雄だ。その中から選んだのは、日本武尊の東征を妨げる海神の怒りを鎮めようと、現在の浦賀水道にあたる「走水の海」で身を投げた妃、弟橘媛の伝説だった。亡き妻を嘆く、喪失感の塊のような男。そこには女は描かれていない。まるで、同じ海を渡って愛を育んだたねとの別れを予言するかのように。 文・井上秀樹  写真・角野貴之

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