1月8日 5敬遠があったから

朝日新聞2018年1月1日25面:勝ちたいという気持ちだけ静かにバットを置き、一塁へ駆けた 「5回敬遠されたことに対して、特別な感情はないんですよ」東京都内のホテルの一室で、松井秀喜は淡々と語り出した。当代きってのスラッガーも、すでに43歳。穏やかな表情が、四半世紀のときを感じさせる。1992年8月16日。強い日差しが、満員の甲子園球場に照りつける。第74回大会2回戦の星稜(石川)-明徳義塾(高知)。松井は星稜の主将で、4番だった。「よく覚えています。色々な光景をね。だって、何もできないんだから」18歳の松井がそのことに気づいたのは、第3打席。2点を追う五回、1死1塁の場面で、初球の直球が外角に外れたときだった。「このケースで敬遠なら、自分と勝負することはないかもしれない」
一回の第1打席は、3番山口哲治が左中間三塁打で出塁し、2死三塁で迎えた。明徳義塾の先発は背番号8の河野和洋。その直球はストライクゾーンを大きく外れ、松井のバットが届かない右打者の打席上を通過した。ストレートのフォアボール。三回、1死二、三塁で迎えた第2打席も敬遠。「もしストライクゾーンに来たら、という気持ちでは待っていた。ただ、そういう雰囲気はなかったですよね」。バットを持つ右手は、滑り止めのロージンバッグの粉で真っ白だった。
試合は、明徳義塾が主導権を握って進んでいた。二回、スイングと長打で2点を先制。三回にも1点を加えた。星稜は三回に5番月岩信成のスクイズで1点を返し、五回には6番の福角元伸が左前適時打を放って1点差。ただ、最少得点にとどまった。後に朝日新聞の記者になる福角は、「誰か早く打てよ、と思っていた」。そして「空回りの連続だった記憶もある」。七回2死走者なし。松井が第4打席へ。スタンドからは「勝負! 勝負!」と連呼する声援が手拍子に乗って沸き起こった。だが、明徳ベンチの意志は変わらない。「小さいころからの『好球必打』を壊してまでバットに当てようとは思わない」。1球1球、松井は同じように右足を上げてタイミングをとり、河野ははっきり分かるボール球を投げた。
そのまま、イニングは九回へ。2死走者なしと星稜は追い込まれる。次打席にしゃがむ松井は声を張りあげて打席の山口を鼓舞した。山口は三塁打。土壇場で、松井の第5打席ー。結果は同じだった。松井はこれまでのように4球を見送った。チームが勝つために、自分が何をすべきかに徹したかった。静かにバットを置き、一塁へ駆けた。 ヤジや怒号が飛び交う。グランドにメガホンが投げ込まれ、試合は中断した。心中は変わらなかった。「勝ちたいという、その気持ちだけ。次のバッター、打ってくれと」。試合再開直後に二塁盗塁。逆転を信じ、足場を築く。だが、次打者はゴロに倒れた。「終わった。残念これで、我々世代の高校野球は終わったと」。両ひざに手をつき、うつむいた。
この年の星稜は石川勢初の全国制覇を狙ったチームだった。山下智茂監督は「松井と山口。投打に柱がいたから」と振り返る。松井も「エースピッチャーが非常に素晴らしい投手だった。彼に依存するところが多かった」と同調する。秋に出場した山県国体では、星稜が優勝した。力を発揮できずに敗れたあの夏。一方で5連続敬遠は、勝敗を超えて球史に刻まれる出来事となった。松井は振り返る。「その後の野球人生にプラスになったことは間違いありません」。ただ、その前に、「個人的にです。あくまでもね」と念を押した。5万5千人の観衆のなか、松井の後を打つ打者の重圧は計り知れない。後年、福角がこの試合を振り返る取材で月岩から聞いた一言が、その重さを物語る。「(あの試合のことは)これが最後。もういいわ」
それなりのバッターと知ってもらう その思いがエネルギーに 「正々堂々」と「勝利至上」。高校野球はどうあるべきか、この一戦を機に社会的な議論が巻き起こった。答えの出ないテーマ。25年経った今、松井はどう考えるのか。「人それぞれ、みんな意見が分かれるところ。どちらが成功、失敗とかではなくてね。試合は我々が負けましたので、試合の展開のなかでは決して間違いじゃなかった。そのあたりとね、高校野球は正々堂々と、ということがあるのであれば、いろんな意見があって当然だと思います」
松井は4球団競合の末にプロ野球巨人にドラフト1位で入団。「ゴジラ」の愛称で親しまれ、日本球界10年で332本塁打を記録し、海を渡る。大リーグでは175本塁打を積み上げ、2009年にはヤンキースでワールドシリーズ制覇に貢献し、MVPに輝いた。12年末に38歳で現役を退くまで、日本を代表するバッターであり続けた。その活躍の根幹に、あの試合からわき出たこんな感情があるという。「あれだけ注目されたなかで、まったくバットを振らずに終わった。じゃあ実際どんなバッターだったんだ、と思われる方がたくさんおられると思っていましたので」いたずらっぽい笑みは照れ隠しだろう。続ける松井の言葉は重い。「そういう方々に、それなりのバッターだったんだよと、知ってもらわないといけないという意味では、非常にエネルギーになったと思います」
地元の石川で育った少年時代。「鮮やかな黄色のユニホームはまぶしかった」と星稜にあこがれた。1年夏、初めて甲子園の左打席に4番として立ったときには、「自分の足が震えているのがわかった」という。2年夏、初めて甲子園出アーチをかけ、ラッキーゾーンの消えた3年春には3試合で3本塁打を放った。一歩一歩、階段をのぼり、全国屈指の強打者として迎えた最後の夏。明徳義塾戦で一度もバットを振らずに、伝説になった。
松井秀喜にとって、甲子園とは? 「子どものときから、高校野球、甲子園が大好きだった。高校生になったらあそこでプレーしたいと、そういう気持ちで小さいときから、ずっと野球をやってきた。そのあこがれの気持ちにまったく違(たが)わぬ場所でした」(敬称略)(小俣勇貴)

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