1月22日 高橋源一郎の歩きながら、考える

朝日新聞2019年1月17日19面:収容所の外国人 完了のない支配 「外国人労働力」を確保しようと政府は出入国管理法を改正しました。国籍の異なる人々が国境を越えて出たり入ったりする場面が増えます。「出口」の一つ、光の当てられにくい外国人収容施設を作家の高橋源一郎さんが訪ねました。寄稿を掲載します。
コンビニのレジの前に立つ。すると、少したどたどしい日本語でしゃべる声が聞こえてくる。「イラッシャイマセ」目を上げると、そこにいるのは日本人ではない。当たり前の風景だ。そういえば、ハンバーガショップや立ち喰い蕎麦屋で立ち働ている外国人を見ても、驚くことはすくなくなった。時々、彼らはどこから来たのか、どんな人間なのか。そう考える。でも、一瞬のことだ。そして、わたしたちはすぐ忘れる。昨年、出入国管理法の改正が大きな議論を呼び、メディアで「入管法」という言葉が飛び交っていた頃、不意に彼らのことを思い出した。改正入管法は、労働者としての外国人の受け入れ拡大を目指して作られた。この国の経済にとって役立つ人材。それが彼らに与えられる役目だ。そして、そのことばかりが議論される。それ以外のことはみんな無関心だ。心の底で疼くものがあった。半世紀前、わたしは学生運動に参加していた。ベトナム反戦。大学制度改悪反対。多くのテーマがあった。その中に、「大村収容所を解体せよ」という声があった。「彼等も人間なのだ。絶対に忘れてはならない」どこかの集会でそんな声を聞いた気がした。でも、その時も、わたしは通り過ぎただけだった。
長崎県大村市にある大村入国管理センター(旧大村入国者収容所)を訪ねたのは、改正入管法が成立した少し後のことだった。最新のIT工場のような、大きくて清潔なその建物の中には、在留資格がないなどの理由でアジアやアフリカ、南米など出身の外国人、約100人が収容されていた。林旗(リンチー)さんは1984年生まれの34歳になる中国人だ。すでに3年近く収容されている。いつ収容施設の外に出られるかは、誰にもわからない。
「障害のある子どもと妻が大阪で暮らしをしている、家族を置いて、生活の基盤のない中国に戻るわけにはいかない。家族が夢に出てくる。会いたい」面会室の透明な窓の向こうで、訥々としゃべった林さんとの時間はやがて終わった。半世紀前、学生運動で逮捕され、拘置所に入っていたわたしも、林さんのように窓の向こうにいた。わたしは独房で7カ月過ごしたが、終りごろは、拘禁性ノイローゼになって独房の壁に頭をぶつけ続けたりした。明確な理由も根拠もわからないまま、そして、いつまでなのかもわからず壁の中にいることにわたしは疲れ果てていたのだ。いまでも、わたしはその頃の悪夢を見るのである。
国籍で人を見る分断を生むだけ 案内された入国管理センターの中の光景は、わたしがいた拘置所の中とほとんど同じだった。記憶にある「大村」とは何だったのだろう。そして、あの時、なぜ人びとは、「大村収容所」の解体を求めたのだろうか。わたしは自分の記憶を確かめるために、いくつも資料を読んだ。大村入国者収容所は、1950年から1993年までの44年間、様々な理由で国外退去命令を受けた「韓国・朝鮮人」を「集団送還」するまで収容する場所だった。そこは「刑期なき獄舎」とも「監獄以上の監獄」とも言われた。「送還にせよ、仮放免にせよ、収容されてから大村収容所を出所できるまでの収容期間には法律上の制限がない」からだった(小野誠之「雑誌『朝鮮人』」27号<1991年・終刊号>)。4.5年にもわたる長期の収容によって絶望し、自殺や膀胱に走る者も続出した。いまと同じだ。だが、その事実はほとんど知られることはなかった。それもまたいまと全く同じなのである。
「大村収容所を廃止するために」と銘打たれた雑誌「朝鮮人」は、1969年に創刊された。「任錫均」という「在日朝鮮人」の韓国への「強制送還」に反対する運動から生まれた雑誌だった。彼は、軍事独裁政権に抵抗する学生運動に関わって逮捕された。死刑判決を受け、送還されれば死刑は免れない状況にあった任錫均の生命を守るために、長期の収容から解放し、亡命への道を拓くための運動が行われていたのだ。雑誌が創刊されたのは、わたしが拘置所にいた頃だった。だが、うかつにも、当時のわたしは、何も知らなかった。いや、知ろうともしなかったのである。
わたしは、創刊号に掲載された任錫均の「大村収容所にはい(入)る」という文書をコピーで読んだ。彼は淡々と収容所の中で起きる出来事を書き、最後にこう結論づける。「法規を破る者は法による懲罰が科せられるが、懲罰には完了があり、完了の後平常に戻れる余地がある。この法に書かれないしきたりには完了がなく、救済の余地は全くない」この透明で美しい日本語の書き手は、極限状態に落とされてもなお、自分が置かれた状況を冷徹に分析できるほどの優れた知性の持ち主だった。そこで、彼は、収容所の中に存在する、法によらない支配の原理を告発している。
この雑誌を最後まで支えた哲学者の鶴見俊輔は、終刊号の座談会でこう語っている。「日本人であることから離れて、離れられないなら一歩距離を置いて寝、人間として見る目を持っていればね、どこでも通用する。それが、在日朝鮮人に対する在日日本人のとるべき見方ではないでしょうか」鶴見は、わたしたちが当たり前にするように人をまず国籍で考える、ということをしなかった。その考えは、わたしたちをただ分断するだけだからだ。鶴見にとって、目の前にいるのは、同じ人間だった。いあや、苦しむ人間と、それを助けることができる人間の2種類だけだった。1世、2世が減り、「集団送還」される在日韓国・朝鮮人がいなくなると、役目のなくなった旧大村入国者収容所は閉鎖された。一つの時代が終わったのである。いまセンターに収容されているは、他の外国人たちだ。けれども、入国管理センターと名称が変わっても、その本質に変わりはないように思える。いまも「刑期」という定めのない「無期限」の徒刑囚として、彼らは「強制送還」の日を待っているのである。ネパール人の元留学生で、かつて母国で政治活動をしたため帰れば命の危険があるというラジェンドラさんは、いま37歳。難民認定を求め、大村で計4年の収容生活を送っている。彼は書いている。「にゅうかんのなかにいるみなさん まいにち3ねん4ねん つらいせいかつ のきこんで いつかいいことおきるかもしらない いつかあかるいみらいみえるかもしれない いつかだれかがてをのばして たすけるんじゃないか・・きぼうのひかりをまっています」 それは、すぐ横の壁の向こうから聞こえてくる、わたしたちの隣人の声だ。そしてわたしたちは考えるのである。ほんとうに、わたしたちは、彼のように「壁」の向こうに閉じこめられ、自由を奪われるようなことは絶対にないと言えるのだろうかと。しょせん、すべては「他人」の出来事なのだと。
ともに歩いて 鉄格子が目を引く施設内を歩き、高橋さんは「刑罰を受けているのと同じだね」とつぶやきました。家族や社会と切り離された、終りの見えない拘禁。「大阪で暮らす妻と幼い子を支えたいが仮放免すら許されない」。面会室で訴える男性に、高橋さんは「社会に伝えます」と応えました。その収容期間は裁判所ではなく、事実上、入管当局の裁量で決められています。人権という観点からのチェックが必要だと感じました。(編集委員・塩倉裕)

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