1月21日 塩原猛さんを悼む

朝日新聞2019年1月16日32面:人類の来し方行く末最後まで 哲学者 鷲田清一 日本古代学、基礎文学論、そして仏教諭、能藝論、さらにスーパー歌舞伎や小説の創作と、じつに幅広い仕事をしてこれらたが、哲学が「本籍地」だとの思いは最期まで消えることはなかった。哲学会に早々と見切りをつけ、わが道を進まれた後でも、ちょうど『日本人「あの世」観』に収められた論考を書き継いでいる頃だろうか、若手哲学者の研究家後の酒席にしばしば駆けつけ、後輩たちとの議論を楽しまれた。近年、残る時間でこれだけはと言っておられたのも、壮大な≪人類哲学≫の構想だった。
「でかい人」「懐の深い人」というイメージが強いが、わたしにはともかく「情に厚い人」というイメージが強いが、わたし自身、関西の哲学界で孤立に近い状況にあったとき、笑みとともに背中をぽんぽん叩かれた思い出があるが、それも、社会で蔑ろに、あるいは置き去りにされてきたものへの溢れんばかりのシンパシー(苦しみを分かちあわんとの思い)の一つだったようにおもう。ときに瞼を伏せて憐れみ、ときに茶目っ気たっぷりに持ち上げる。人をついその気にさせるのに長けた、いい意味での「人たらし」であった。哲学徒だけではない。芸術家のたまごたちも、その煩悶のさなか、どれだけ気に掛けられ、背中を押されたことか。
「夢を見る人間には、心に大きな傷を持っている人が多い」。『少年の夢』のなかで馬原さんはこう書いている。80歳前後に書かれた大著『法然の哀しみ』でも『歓喜する円空』でも、ふたりの心に幼くして刻まれた傷と生涯続いたその疼きへの強い共鳴から書き下ろされている。あるいは代表作『水底の歌』もそうだが、怨み、無念、悔しさといった、抑えようにも抑えきれない情念に突き動かされ、さまようほかない人たちへの共感は熱かった。
不幸や不運だけではない。「笑い」もその探求の対象とした。とにかく、人が持て余しているさまざまな情念に無関心でいられない人だった。さまよう情念こそあっらゆる著作に通底する主題であった。このことは、アイヌや東北や沖縄の文化など、社会の「辺境」、あるいは歴史の「欄外」として切り捨てられてきたものを日本文化の《基層》として捉えなおす仕事にも、強い動機としてはたらいていた。群れない人、徒党を組まない人であった。孤立しても、一歩も引きさがらずみずからの信ずるところを述べる、そんな「一匹狼」と心得ていた。脳死臨調では「脳死」を「人の死」とすることに最後まで異論を唱え、「九条の会」では呼びかけ人となって非戦を訴え、東日本大震災復興構想会議では体調も万全でないなか被災地を巡った。
論争の人ではあったが、論争の相手をこきおろすことはなかった。肌合いのひどく異なる同世代の吉本隆明や鶴見俊輔との論争もどこか歓んでいるふうであった。相手が本気であればあるだけ、そのやりとりをおもいきり愉しむ人だった。だが、最後の最後まで梅原さんが気に掛けていたのはやはり、自身の、そして同時代の、そして人類の、さまよえる魂の来し方、行く末であった。わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。うつろいゆく魂の、そのうつろいの向きに関心はいつも収斂していった。3年半前、先に逝った鶴見俊輔が「真理とは方向感覚である」と言っていたその感覚を共有していた。そんな京都のまちで同時代を過ごせたことが、いまはせめてもの慰めである。(寄稿)

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