1月10日 みちのものがたり

朝日新聞2018年1月6日Be6面:日野原重明さんが通った道(東京都) 妻のミッション「走る書斎」 beの連載「あるがまゝ行く」を2002年から書き続けた医師でエッセイストの日野原上げ空きさんが昨年7月、105歳で亡くなった。連載の最後の5年間、担当編集者を務めた私は日野原さんの「自分への厳しさ」に言葉を失うことが何度もあった。聖路加国際病院の緩和ケア病棟を回診し、講演や東日本大震災の被災地支援などで全国各地を訪ねた。移動中も休むことなく資料に目を通し、原稿を書く。結果、体調を崩したり、悪夢にうなされたりもしていた。それでも「生涯現役」を貫き通した。
車の後部座席を「走る書斎」と呼んだ。板の裏側にクッションのついた「ラップデスク」をひざに置き、原稿用紙にペンを走らせる。東京・田園調布の自宅から、築地市場近くの病院へ。景色が速く流れるほど創作意欲は加速し、「百二歳、スピード狂に歳はない」と詠んだ。「走る書斎」を手に入れたのは1964年。自らは多忙で自動車教習所に通えなかった。ハンドルを握ったのは家事育児の合間に夫の仕事を手伝っていた妻の静子さんだ。
元々は電車通勤だった。田園調布から東急東横線で渋谷へ出て、地下鉄銀座線の新橋で降りていたが、仕事が増え、「移動中も作業できる」と、自宅からタクシーに乗るように。そのころ高校生だった次男の直明さん(69)は、「活動的でも、社交的でもない母が、教習所に通い始めた時には驚きました。さすがに出費がかさむし『私がパパのために運転できたら』と推し量る。最初に活躍したのはラップデスクではなくテープレコーダーだった。文面を日野原さんが吹き込み、持ちう帰った静子さんが清書した。
妻の慎重な運転は、せっかちな夫をやきもきさせていたようだ。16年2月、「あるがまゝ行く」で、「妻に言えなかった『ごめんなさい』と題して、こう書いた。≪ある朝、事件は起きました。運悪く何かの用事で家を出るのが遅れ、研修医の回診に遅刻しそうになっていました。気が急いていた私は、混雑する道で、もっとスピードを出すよう、何度も妻に強く言ったのです≫ なかなか他の車を追い越せないでいる妻に無理やり車を止めさせ、そのまま無言で、通りかかったタクシーに乗り込み、病院へ向かった。≪残された妻は、交通整理の巡査に導かれて側道で待機させられ、環八通りを自宅へ引き返したようでした≫
その晩、「事件」について、妻は夫をひと言も責めず、夫も妻に謝らなかった。そのまま月日は流れ、静子さんは13年に他界。日野原さんはこう締めくくった。≪物静かでも強さを討ちに秘めていた妻に、あの朝、私は心細い思いをさせ、怒りという、苦しい感情を抱かせてしまった。記憶がよみがえるたび、複雑な心持になり、今では「トラウマ」のようでさえあるのです≫ 一方で、後々まで家族の語り草になった笑い話がある。
1966年の夏休み。静子さんの運転で、日野原さんが助手席、明夫・直明・知明の3人兄弟が後部座席に座り、軽井沢を目指した。群馬・高崎を経由して碓氷峠へ。山道は初めてだった静子さんは急カーブをうまく曲がれず、何度もガードレールすれすれでハンドルを切った。「ぎゃー!」「危なーい!」。峠を越え、家族が胸をなで下ろした時。「父が、自分の握り拳を見ている。指を開いたら、銀紙に包まれた三角のチーズがグチャグチャにつぶれていた。食べようとしていたのを忘れ、恐怖のあまり握ってしまったみたいです」。直明さんは笑顔で話す。息子たちが免許を取り、運転手もつくようになった数年後。静子さんは運転というミッションから解放された。
天国のテーブルに着いた時 亡き妻への心残りをつづった104歳の冬、日野原さんの「走る書斎」は減速し始めた。心臓の大動脈弁狭窄症に配慮し、車椅子を使い、講演や仕事を減らしていた。「静子が送り迎えしてくれた景色が見たいんだ。行きは石川台の交差点。帰りは目黒を下りて目黒通りね」。それを聞いた運転手の伊藤力さん(63)と、付き人の斎藤寿明さん(74)は、「1分1秒でも早く目的地へ、だった先生の気持ちが、過去に向かっているのでは」「何十年もの間、うたた寝どころか、放心もせず、車中で働き続けていた、あの先生が・・」と驚いた。伊藤さんはそれまで、山ほどある予定を分刻みでこなす100歳超の「うちの親分」を他の著名人付き運転手に自慢しては、「若い俺が負けてらんねえぞ」と自分を奮い立たせてきた。「速いのに安全運転の伊藤君に慣れてしまうと、普通のタクシーが遅くて困るよ」という親分の言葉がうれしかった。
元病院職員の斎藤さんは、「先生は富士山みたいな人。近くで見ると、誰よりまず自分に厳しく、他者の仕事に求める水準も高い。岩のように地道な毎日を積み重ねていた」と語る。出張は遠方でも原則、日帰り。仕事や人付き合いは「困っている人の役に立てるか」で選ぶ。巨人戦の特等席に招待されても「仕事があるし、家族と夕飯を食べないと」と、30分ほどで帰り支度を始めた。
「自分への厳しさ」は、牧師の家に生まれ、7歳で洗礼を受けて以来の信仰心ゆえなのか。日野原さんの葬儀で説教を担当した、聖ルカ礼拝堂主任司祭、ケビン・シーバーさん(50)に尋ねた。「クリスチャンは現世で『救い』を経験します。弱くて頑張れない自分を神様が救ってくれたと感じた時、聖書が説く『救い』は本当にあったと『腑に落ちる』。その先は人生をかけて神様に恩返しをする。他者につくすことが神様につくすことになる」
日野原さんの「救い」は自らが人質の一人となった70年の「よど号ハイジャック事件」からの生還だった。静子さんは、夫を気遣ってくれた人々へのお礼状に、こう記した。「いつの日か、いずこの場所で、どなたかにこのうけました大きな恵みの一部でもお返し出来ればと願っております」当時大学生だった直明さんは、「母の文章を読んだ父は『自分より信仰心が深い』と、心打たれていた」と明かす。「母を尊敬していたからこそ、謝れなかったことを深く悔やんでいたのでいしょう」通勤路で起きた「事件」の夜、なぜ静子さんは日野原さんをとがめなかったのか。
シーバーさんは言う。「奥様は先生をゆるせていたんだと思います。そして過ちを認める、謝ることも大切。先生はエッセーを書くことで、神様に、世の中に、先立たれた奥様に、罪の告白をしていたのかも知れません」生前、日野原さんは「天国に行ったら、私は神の宴の大きなテーブルに着く。私の席は、静子の隣」と語っていたという。夫婦は、ゆるしあえたのだろうか。「天国の宴はどんな罪も些細に思えるほど、喜びであふれているらしいです。私もまだ行ったことはないですが」とシーバーさん、よかったですね、先生。

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