3月14日 憎いあンちくしょうの道(東京都~熊本県)

朝日新聞2019年3月9日be6面:「あんな怖い思い、なかった」 浅丘ルリ子に会った。「危険なほどに美しい」と評された美貌。激情を秘めた甘い声。ああ本物のルリ子である。叫びたくなった。「テンコさん!」 21歳の彼女が日活映画「憎いあンちゃくしょう」(1962年7月)で演じたヒロイン典子の愛称である。その恋人役で人気タレント・大作役が「戦後最大のスター!」石原裕次郎。感情のすれ違いから東京を小型四輪駆動車で去った大作を、テンコは英国車ジャガーで追う。彼女自身、出演した映画158作中、指折り好きな作品という。だが撮影当時のことを聞くと「あんな怖い思い、したことないなあ・・」。「東京→九州、1,60キロ!」とうたう破格の日本縦断ロケ。まず運転免許を取った。車体が大きいジャガーのアクセルやブレーキを踏めるよう靴の裏に板を付け、晴れの道は、ほこりや泥まみれの道、雨にぬれた道を走らせた。マネジャーのテンコとの仲に倦怠を覚え、預かった中古四輪車を九州まで届ける役を買って出た大作との、抜きつ抜かれつの感情のバトル。「日本初の本格的ロードムービー」とされる企画を仕掛けたのは監督・蔵原惟繕である。いわゆる超大作ではない。映画黄金期、1ヵ月余りの製作期間で大量に作られた「スターの定番映画」の1本。だが、蔵原には念願の作品だった。脚本は名コンビの山田信夫。会社にいったん拒否されたが、裕次郎、ルリ子主演で「銀座の恋の物語」(62年3月公開)を監督する条件で、しかもそれがヒットしたので撮れたと蔵原は映画専門誌で語っている。「会社の注文に対応しつつ、やりたいことを巧みに潜り込ませた」。後に蔵原作品の助監督やプロデューサーを務めたアルゴ・ピクチャーズ社長の岡田裕(80)は言う。十数台の車が列をなすロケ隊が東京・調布の撮影所から拍手と歓声に送られて出発したのは6月6日夕。行く先々で沿道に「裕ちゃん」目当ての群衆が並ぶ。その様子は「人気タレント」を見に集まったファンとして描かれている。
ロケはかつてなくハードに進んだ。大阪駅前では裕次郎を群衆が取り巻く「本物の混乱」の中で撮影を敢行。山陽地方に入るとデコボコ道を走り、ほこりや泥を飛び散らせた。スチルカメラマン井本俊康(88)は「撮影が終わり深夜、疲れ果てて宿に着くと倒れるように眠り、翌朝はすぐ移動の毎日。どこに泊まったか記憶にない」。大変さは調布の撮影所でも話題になっていた。広島を過ぎたあたり、路上で待っていた撮影所長がロケバスを止めて乗り込み、「こんな撮影は二度とやらない。あと少し頑張って欲しい」と励ました。九州と結ぶ関門トンネルに入るとスタッフから「バンザイ」の声が上がった。だが福岡の祭りのシーンは興奮した群衆が殺到して混乱。裕次郎とルリ子のロケは中止され、セット撮影に変更された。最後のロケは19日、熊本県高森町の阿蘇山に近い草原だった。裕次郎がルリ子に覆いかぶさり、唇を重ねた2人は「取り戻した愛」をかみしめる。照りつける太陽ー。ルリ子は「このシーンが一番好き」と言った。制作費は通常の裕次郎映画の約1.5倍。7月8日に公開され、興行収入は62年度の日活作品中、5位だった。
 ロードムービーの先駆けに 娯楽映画研究家の佐藤利明(55)によると、公開当時はロードムービーという言葉自体、一般化していなかった。旅の中で物語が大きく展開し、その経験が主人公を変えていく映画が広くロードムービーと呼ばれるようになったのは「イージー・ライダー」など60年代末に登場した「アメリカン・ニューシネマ」の潮流れが生まれてからだ。見失ってしまった愛を、旅の中で感情をぶつけ合うことで再認識し、取り戻す。そうしないと明日に向かって進めない。フランス映画的な斬新な映像が主に手持ちカメラで撮影され、軽快なジャズが流れる「憎い~」は新感覚の作品だった。
撮影された62年は東京五輪の2年前、高速道路が登場する前年である。その映像から高度成長途中の日本の姿を知ることができる。「憎い~」への回答でもあるかのようなロードムービーも登場した。70年に公開された松竹映画「家族」(山田洋次監督)だ。長崎の炭鉱の閉山が決まり、故郷を離れた賠償千恵子と井川比佐志の夫婦一家が大阪、東京を経て北海道東端の酪農の開拓地に根を下ろすまでの旅の物語。ちょうど開催されていた大阪万博の華やかさの一方で、空に白い煙を吐き続ける工場の煙突が繰り返し映し出される。
現状に充足できず「ここではないどこか」を求める主人公は日活黄金期の多くの映画に共通すると映画研究家の佐藤は言う。このテーマを確立したといえるのが、ブラジルに移民した兄(実は渡航前に殺される)からの手紙を待ち続ける裕次郎主演「俺はまっているぜ」(57年)。蔵原の最初の監督作だった。ロケで遭遇した現場の混乱をドキュメンタリー映画さながらに撮影し、作品に取り入れる手法を蔵原は「憎い~」で見いだした。ロードムービー志向を強めるのは当然の成り行きだろう。蔵原は、父親が農園技師をしていた東南アジア・ボルネオ島で生まれ、小学校入学のため日本に帰るまでそこで育った。「オランウータンと遊んだ」と周囲に語り、「サバンナでシマウマを狙うライオンの目をしろ」と演技指導したこともあったという。「国籍不明というか、日本になじめず、日本人らしくないことろがあった」とアルゴ社長の岡田は言う。裕次郎、ルリ子共演の「栄光への5000キロ」(69年)ではアフリカロケを敢行、サファリラリーの世界を描いた。南極、北極ロケに挑んだ「南極物語」(83年)は公開後10年以上、邦画の興行収入歴代1位を守った。
だがその後、作品の不入りもあって映画製作に苦しむ。腎臓病で倒れ、ベッドに寝たきりになると、弟の映画監督・プロデューサーの惟二(83)に言った。「俺の姿を撮れ」。死ぬまでをよく見ていろと言いたいようだった。意識が薄れても、映画の作業をするように手を動かしていた。2002年、75歳で死去。遺骨は海にまかれた。裕次郎は63年に石原プロを設立。大スターであり続けたがたびたび病に見舞われ、「あと一本、映画を作りたい」との希望を果たせず、87年に52歳で死去。ルリ子は裕次郎映画のヒロインとして活躍する一方、蔵原と組んだ単独の主演映画を撮るようになり、大女優への道を歩き始めた。
「あのころ、私、蔵原さんに恋していました。さっそうとして素敵な方でした。蔵原さんがいなければ、女優を続けているかわからない」「狭いスタジオじゃなく、パーッと広い場所で、好きなものを撮りたい方でした。仕事を愛することを教えてくれました」いまも多くの道で映画が作られている。(敬称略)
文・小北清人  写真・角野貴之

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